東京文学散策~渋谷編(林)
東京文学散策の7回目です。
2日目は渋谷からスタートします。
渋谷の地形
渋谷は名前の通り、もともとは谷間の土地です。
武蔵野台地が東京湾へと伸びてゆく先端を目黒台地といいます。
新宿御苑に発する渋谷川とその支流の宇田川がこの台地をY字形に削って3つの丘を作りました。
代々木台地、西渋谷台地、東渋谷台地です。
これらの台地に挟まれた低地が渋谷です。
今や国際観光スポットの一つとなったスクランブル交差点も渋谷駅も谷底にあります。
円山町~渋谷駅~青山学院大学正門を結んだ線で断面図を見てみましょう。

画像1 渋谷付近断面図
(国土地理院地図より作成)

画像2 渋谷付近地図
(青い線で断面図を作成)
それぞれの標高は
円山町が34.78m
渋谷駅が14.6m
青山学院大学正門が33.76m
最も低いところに渋谷駅があり、まわりを台地に囲まれていることがよくわかります。
渋谷と文学
渋谷は文学と浅からぬ縁があります。
国木田独歩(1871~1908)は1896年9月から翌年4月まで渋谷村に暮らしました。
与謝野鉄幹(1873~1935)・晶子(1878~1942)夫妻は1901年に東京新詩社の拠点を渋谷に置きました。
渋谷と文学の関わりは、渋谷区教育委員会『新渋谷の文学』(2005年)があらましを教えてくれます。
また、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館は、渋谷区にゆかりのある作家の作品・資料を常設展示しています。
独歩が暮らした渋谷
現在の渋谷は再開発が進められ、
渋谷スクランブルスクエア(229m)
セルリアンタワー(184m)
渋谷ヒカリエ(182m)
Shibuya Sakura Stage SHIBUYAタワー (179m)
渋谷ストリーム(179m)
などの超高層ビルが林立する大都会です。
しかし、国木田独歩がいた頃の渋谷は違います。
彼の家は現在の渋谷区宇田川町にありました。
必ずしも道玄坂といわず、又た白金といわず、つまり東京市街の一端、或は甲州街道となり、或は青梅街道となり、或は中原道となり、或は世田谷街道となりて、郊外の林地田圃に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈し居る場所
(中略)
大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落ち合って、緩かにうずを巻いて居るようにも思われる(後略)
(国木田独歩『武蔵野』1898年)
当時の渋谷は生活と自然、都会と田舎が出会う境界地でした。

志賀直哉と渋谷
文豪・志賀直哉(1883~1971)もまた、渋谷に暮らした文学者のひとりです。
志賀は1955年に静岡県熱海市大洞台の山荘から渋谷に越してきます。
その家については、
「衣食住」(1955年)
「今度のすまい」(1955年)
「熱海と東京」(1956年)
などの随筆に記されています。
それは、
全く洒落気のない、丈夫で、便利な家
(「今度のすまい」)
繁華な所に近い割りには静かだ。
(中略)
夜など、品川の海からボウーと汽船の汽笛が聞こえてくるのもかえって静かな感じがする。
(「熱海と東京」)
という家でした。
現在の渋谷区東1丁目、常磐松小学校の近くにあります。

志賀と玉電
志賀直哉と渋谷との関わりでは、私は次の作品に惹かれます。
1955年、『朝日新聞』に掲載した『夫婦』という随筆です。
はじめに東海道線で乗り合わせた米国人夫婦について記し、続いて志賀自身が十数年前に経験したことを書いています。
その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問する時だった。
丁度、甚(ひど)い降りで、自家(うち)から電車まで十分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿き更え、タクシーで行く事にしていた。
玉電(たまでん)の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。
その辺はいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を支えてもらって、穿き更えるので、家内の気持ちは甚く忙(せわ)しくなっていた。
恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)に廻ると、黙って、私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。
日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外な事だった。
呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんな事には全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立って、八公(はちこう)の広場へ出るコンクリートの階段を降りて行く。
私は何となく面白く感じた。
ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。
達意の名文により、情景がありありと目に浮かびます。
志賀直哉は1940年~47年まで、世田谷区新町2丁目に居を構えていました。
玉電とは路面電車の玉川線のことです。

志賀一家が降りたのは玉電ビル2階の駅だとわかります。

画像3 渋谷・玉川周辺地図
地図の右上に渋谷駅
中央左に新町
左下に二子玉川駅
その後の玉電
高度経済成長期に入り、自動車が生活に浸透するにつれて、路面電車の玉電は邪魔者扱いされるようになります。
その結果、1969年に玉川線は廃止され、1977年に地下鉄の新玉川線が開通します。
2000年には新玉川線が田園都市線の一部として統合されました。
こうして創業以来の「玉川」という名が消滅します。
ただしJR渋谷駅には最近まで「玉川改札」が存在しました。
この名前は山手線外回りの改札口前に玉電の渋谷駅があったことに由来します。
しかしながら、この改札も2020年9月25日をもって閉鎖されました。
渋谷は再開発の真っ最中です。

