孔子と隠逸(林)

『論語』微子篇
岐山高校2年生の後期期末テストで『論語』微子篇が試験範囲となっています。
原文と現代語訳は長くなるので割愛し、はじめに概略を述べることにします。

長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)という二人が畑を耕しているところに、孔子と弟子の子路(しろ)が通りかかります。

孔子が子路に渡し場を尋ねさせますが、二人は教えてくれません。
それどころか、
とうとうとあふれて流れる大水のように、世の中は乱れている。
仕えるべき為政者を求めて得られずに、人を避けている孔子の仲間になるよりも、世の中を避けている我々の仲間になってはどうか。

と子路に誘いの言葉をかけます。

これを伝え聞いた孔子は、
鳥や獣と一緒にいることはできない。
私は人間とともにいるのだ。
世の中に正しい道が行われているならば、私が改める必要はないのだ。

と慨嘆します。

「憮然」という言葉
孔子は長沮と桀溺の言葉を聞いて「憮然(ぶぜん)」とします。
『論語』微子篇には
夫子憮然曰
先生は憮然としておっしゃった

と書かれています。

「憮然」は、現代日本では「怒っている様子」を表す語としても用いられているようです。
ただし、もともとは「失意でがっかりする様子」を表します。
孔子はなぜがっかりしたのでしょうか。

隠士・隠逸・隠者・逸民
長沮と桀溺はおそらく本名ではなく、仮名でしょう。
彼らは隠士(いんし)・隠逸(いんいつ)・隠者(いんじゃ)・逸民(いつみん)と呼ばれる人々であったと思われます。

『老子』の小国寡民のところで書いたように、孔子が生きた春秋時代末期は、都市国家から領土国家への移行期にあたります。
国際的には国どうしの戦争がくり返されます。
国内では、公室(国君の一族)と、貴族(公室の子孫や在地有力者)と、士(公室や貴族に仕える新興勢力)とが三つどもえの権力闘争を繰り広げます。

これにより既存の政治体制が解体し、社会の秩序が崩壊して、戦争や内乱によって家族を失ったり、家をなくしたり、故郷を離れてさまよったりする人が数多く現れます。

こうした事態を目の当たりにして、孔子は西周王朝成立期に周の武王(ぶおう)と周公旦(しゅうこうたん)が創始したと伝えられる、いわゆる周の封建制を模範としつつ、家族関係の行動規範に基づく道徳政治(徳治)を実践することによって、世界に平和をもたらそうとします。

これとは別に、道徳政治が実現されず、暗黒政治が行われている現実から身を避け、国家から禄(ろく=俸給)をもらわない生き方を選ぶ者もいます。
これが隠逸とか逸民などと呼ばれる人々です。

隠逸を称える孔子
『論語』には隠逸の生き方を称える孔子の言葉が採録されています。

憲問恥。
子曰、邦有道穀、邦無道穀、恥也。
原憲(げんけん)が恥について尋ねた。
孔子が次のように言う。
国に正しい政治が行われていれば、仕官して俸禄を受ける。
国に正しい政治が行われていないのに、仕官して俸禄を受けることは、恥である。
(憲問篇)

天下有道則見、無道則隠。
邦有道、貧且賤焉、恥也。
邦無道、富且貴焉、恥也。
国に正しい政治が行われているならば、表に立って活動する。
正しい政治が行われていないならば、隠れる。
国に正しい政治が行われているときに、貧乏で低い地位にいるのは、恥である。
国に正しい政治が行われていないときに、裕福で高い地位にいるのは、恥である。
(泰伯篇)

君子哉、蘧伯玉。
邦有道則仕。
邦無道則可巻而懐之。
君子らしいなあ、蘧伯玉(きょはくぎょく)は。
国に正しい政治が行われているときは仕官する。
国に正しい政治が行われていないときは才能を隠しておける。
(衛霊公篇)

国に正しい政治が行われているときは表舞台に立って活動する。
国に正しい政治が行われていないときは隠れて生きる。
出処進退を潔くする生き方を孔子は称えました。

孔子が落胆した理由
暗黒政治に背をむけて、おのれの精神の清らかさを保とうとする逸民の生き方を、孔子は評価しました。
だからこそ、高潔な人びとと言葉を交わし、それぞれの志を語り合い、たとえ目指す方向は違っていたとしても、理想を実現するための手がかりを得たいと孔子は考えていたのでしょう。
しかし長沮と桀溺は、孔子たちをけんもほろろにあしらいます。
孔子が落胆した理由はここにありそうです。

暗黒政治に立ち向かうべきか
国に正しい政治が行われていないときは、おのれの才能を隠して生きる。

孔子のこの言葉に対して、なんと消極的で保身的だと思う人もいるかもしれません。
孔子はどうしてこのような言葉を述べたのでしょうか。

孔子自身は母国の魯(ろ)で政治改革を試みた人です。
しかし国政を牛耳る貴族たちの牙城を崩すことはできずに失敗します。
その後、孔子は理想の政治を実現する為政者を求め、13年にわたって諸国を流浪し、そのあいだに3度も生命の危機にさらされるという苦難の人生を歩みます。

長沮と桀溺に渡し場を尋ねた子路は、後に衛(えい)の国に仕官し、国君の地位をめぐる内乱の際に壮絶な死を遂げます。
『春秋左氏伝』哀公15年条(紀元前480年)は、子路の最期の姿とともに、内乱の知らせを聞いた孔子の言葉を載せています。

孔子聞衛乱、曰「柴也其来、由也死矣。」
孔子は衛の乱を耳にし、「柴(子羔、しこう)は戻ってくるが、由(子路)は死ぬだろう」と言った。

弟子たちの性格を熟知していた孔子は、子路が命を失うことを覚悟していたのです。
ときに子路は64歳。
孔子は翌年に74歳で逝去します。
愛弟子の子路の死は孔子の最晩年を襲った悲劇でした。

国に正しい政治が行われているときは、表舞台に立って活動する。
国に正しい政治が行われていないときは隠れて生きる。
孔子の言葉は、春秋時代の苛酷で峻厳な現実に抗い、艱難辛苦を味わい尽くした人生の最後の最後に、最愛の弟子を失わなければならなかった孔子の、深い哀しみに思いを馳せて理解すべきではないでしょうか。

ブログ

次の記事

明日へ延期(ogawa)New!!