「合格を祈る」考 その2(林)
試験が終わったあと、合格を祈るのはなぜでしょうか。
大森荘蔵氏(1921~1997)の「過去」論に示唆を受けながら考えてゆきましょう。
大森氏が過去について論じた文章は以下のとおりです。
「物語としての過去」『現代思想』1994年9月号
「殺人の制作」『現代思想』1995年2月号
「『後の祭り』を祈る」『現代思想』1995年8月号
「時は流れず」『現代思想』1996年4月号
いずれも大森氏の著書『時は流れず』(青土社、1996年)に収録されています。
過去そのものは妄想
過去はすでに確定していて、もう変えられない
多くの人はそう考えるのではないでしょうか。
大森氏はこれを「過去自体」という考えだと言います。
少しやさしく言い直せば、「過去そのもの」となるでしょう。
過去自体(過去そのもの)とは、
現在からは手がもう届かない「決定済みの過去」
人間の認識作用とは無関係に、「客観的に存在する過去」
のことです。
大森氏は「過去自体」という考えは妄想だと言います。
どうして妄想なのでしょうか。
過去そのものは知覚できない
過去そのものという考えはどうして妄想なのでしょうか。
みなさんは過去そのものを直接に見たり聞いたり触れたり感じたりできますか。
私たちは決して過去そのものを知覚することはできません。
できるのは「過去」に関する情報であり、それはすべて「現在のもの」です。
いやいや、そんなことはない。
次のように反論できる。
ここに去年の1月1日に撮った写真がある
3年前の入学式の様子を記録したビデオがある
6年前にもらった小学校の卒業文集に自分が書いた文章が載っている
こうした事例を挙げて、過去そのものを見たり触れたり聞いたりできないというのは間違いだと思うかもしれません。
しかし、その写真もビデオも文集も、すべて「今あるもの」であって、「過去そのもの」ではありません。
(イギリスの哲学者で数学者のバートランド・ラッセル(1872~1970)の「世界5分前仮説」というパラドックスについては、別の機会に考えます。)
ここのところを慎重にとらえなければなりません。
厳密に細心に考察を進めていくというのが哲学する際の大切な心構えです。
過去の知覚
過去に関する材料はすべて「今あるもの」であって、「過去そのもの」ではない。
このように言っても、過去を思い出すとき、何か知覚的なものが浮かんでくると思う人も少なくないでしょう。
例えば、昨日の晩ご飯。
思い出すと晩ご飯のおいしさを感じることができるような気がします。
また、先週月曜日に感じた歯の痛み。
思い出すだけで、また痛くなってきそうです。
しかしこのとき私たちが思い出しているのは、味そのものでも痛みそのものでもなく、
ああ美味しかった
ああ痛かった
という命題(言語で表した判断)です。
もしも味そのものを楽しめるならば、おいしいごちそうを2度も楽しめるわけですから、こんなありがたいことはありません。
しかし残念なことに、そんな「うまい話」はありません。
歯の痛みも同様です。
思い出して痛いのであれば、それは「今の痛み」であって、過去の痛みではありません。
置き換えもしくは重ね合わせ
大森氏は「昨日、凧揚げをした」という過去命題を例に挙げています。
「昨日、凧揚げをした」という過去の情景を思い浮かべてみてください。
どうでしょう。
「今、凧揚げをしている」という現在の情景を思い描いて、
過去のことに置き換える
過去のことだと「注釈」をつける
過去のことに重ね合わせる
といった形で、「昨日、凧揚げをした」という情景をイメージしているのではないでしょうか。
過去の情景そのものが自分の意識に再現されているわけではないのです。
それでは過去とはどのようなものなのでしょうか。
さらに考察してゆきましょう。

