市場はどこに?(林)

『韓非子』の「買履忘度」が羽島北高校のテスト範囲になっていますね。

生徒のみなさんはM波先生の最強動画を視聴してしっかりと準備しましょう。

私も「買履忘度」に関連することを書こうと思います。

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「買履忘度」のあらすじを記しておきます。

  鄭の人が履き物を買おうとして、まず自分の足の長さを測定した。

  市場に出かけたけれど、寸法書きを持ってくるのを忘れたので、家に取りに帰った。

  市場に戻ってきたときには、もう市場が終わっていたので、履き物を買えなかった。

という話です。

主人公が出かけた市場はどこにあったのでしょう?

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まずは鄭という国について。

鄭は西周時代末期の紀元前806年、周王室の都=宗周に近い鄭(陝西省渭南市華州区の東)に誕生します。

周王室が東遷したとき、鄭も新鄭(河南省鄭州市の南)に移りました。

春秋時代(紀元前8世紀~紀元前5世紀)の鄭は、北の晋と南の楚という二大国の勢力争いに巻き込まれ、時には晋の陣営に入り、時には楚に与するという非常に難しいふるまいを余儀なくされます。

その後、戦国時代の紀元前375年、韓によって滅ぼされました。

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続いて鄭国の市場について。

春秋時代に関する最も重要な史料である『春秋左氏伝』に興味深い話が載っています。

『春秋左氏伝』荘公28年(前666年)条

  秋、子元以車六百乗伐鄭、入于桔柣之門。

  (中略)衆車入自純門、及逵市。

  県門不発。

  楚言而出、子元曰「鄭有人焉。」

  諸侯救鄭、楚師夜遁。

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日本語訳を付けておきましょう。

  秋、楚の子元は600台の戦車で鄭を攻撃し、桔柣(けつてつ)の門に攻め入った。

  (中略)多くの戦車が純門(じゅんもん)を突破して、逵市(きし)に押し寄せた。

  すると県門(けんもん)は開いたままである。

  子元は「鄭にはかなりの人材がいるぞ」と楚の言葉でしゃべりながら、城外に出た。

  諸侯の軍が鄭の救援にやってきたので、楚軍は夜のうちに退却した。

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三国時代から西晋時代の政治家で学者だった杜預(222年~284年)の『春秋経伝集解』は次のように注釈しています。

  桔柣、鄭遠郊之門也(桔柣は、鄭の遠郊の門である)。

  純門、鄭外郭門也(純門は、鄭の外郭の門である)。

  逵市、郭内道上市(逵市は、郭の内側、道路沿いの市場である)。

  県門、施于内城門(県門は、内城に設けられた門である)。

杜預に従うと、桔柣は鄭の国都の郊外にある門、純門は国都の外郭の門、逵市は郭の内側の道路沿いにある市場、県門は内城の門となります。

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ここに見える「城・郭」は日本語のそれとは意味が違います。

「城」の本来の意味は都市のまわりをめぐる土の壁(城壁)であり、そこから城壁によって囲まれた都市をも「城」と呼ぶようになります。

「郭」は「城」のさらに外側を囲繞する土の壁です。

理念的にいうと、中国古代の都市は内側の城壁と外側の郭壁によって二重に囲まれた「内城外郭」形式でした。

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楚国の軍隊は桔柣門を通って鄭の国都の郊外に至り、純門から郭のなかに入って逵市まで押し寄せたところ、内城に通じる県門が開いたままになっているため、鄭軍が何かの計略を企んでいると疑い、内城に攻め込むのをやめて、国都の外へ出たようです。

これは三国時代の諸葛孔明や日本の徳川家康の「空城の計」の元祖ともいえる話ですね。

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『春秋左氏伝』を読んでいると、鄭国の「逵」は他にも何度か出てきます。

しかし、それを書いていると長くなるので省略します。

要するに、鄭国の逵市は国都の外郭のなかを通る大きな道路ぞいに設けられた市場であったようです。

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ここで下の図をご覧ください。

    (許宏『先秦城市考古学研究』北京燕山出版社、2000年から引用)

これは春秋時代の鄭と戦国時代の韓の都とされる遺跡(鄭韓故城)です。

遺跡は双洎河と黄水河の合流点にあり、河川に沿って城壁が作られ、東西が約5000m、南北が約4500m、不規則な四角形をしています。

また、中央に南北およそ4300mの隔壁があり、都市を東西に分けています。

中国社会科学院考古研究所の許宏氏によると、西城の中部と北部には建物の基壇が集中的に分布していて、鄭と韓の宮殿区であったと考えられ、東城にはいろいろな手工業工房が各地に分布しているということです(前掲書pp.92~93)。

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戦国から秦漢時代に成立したとみられる『管子』「大匡」は春秋時代の斉国について、

  凡仕者近宮(宮中に仕える者は宮殿の近くに住む)。

  不仕与耕者近門(宮中に仕えない者と農民は城門の近くに住む)。

  工賈近市(手工業職人と商人は市場の近くに住む)。

と記しています。

これも参考にすると、遺跡の西城が内城、東城が外郭に相当し、逵市は東城にあったと考えてよさそうです。

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「買履忘度」の人も東城にあった市場へ履き物を買いに出かけたのでしょうか。

次回は、寸法書きを家に取りに戻っているうちに市場が終わってしまっていたことにちなんで、中国古代の市場の構造と制度について書きたいと思います。

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