「山椒魚」と私たち(林)
高校生の前期期末テスト対策をしてきました。
入学試験も含めて、テストとしての「国語」は問いに答えるという枠組みの中で文章を読まなければなりません。
それがテストというゲーム(一定の規則に従って、他者との相互作用のもとに行われる活動)のルールであるというならば、確かにそのとおりです。
しかし、私はその息苦しさから逃れたいという気持ちを常に懐いています。
息苦しさから連想して、今日は愛読する作家のひとり、井伏鱒二の「山椒魚」を紹介します。
井伏鱒二は1898年、広島県に生まれました。
1928年に「鯉」、29年に「山椒魚」を発表して文壇に名を知られ、37年に「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を受賞します。
66年に文化勲章を与えられ、93年に95歳で逝去しました。
「山椒魚」は井伏の代表作のひとつです。
1929年に『文芸都市』5月号に掲載されました。
1985年に『井伏鱒二自選全集』(新潮社)の第1巻に収録する際、井伏が末尾の一節を削除し、その是非をめぐって論争が起こります。
当時、私は大学生でした。
作品は誰のものかをめぐっての侃侃諤諤たる議論をよく覚えています。
「山椒魚」は優れた寓話として読むことができます。
主人公は体が大きくなって岩屋から出られなくなった山椒魚。
岩屋はとても狭小で、読むたびに息が詰まりそうになります。
しかし、小説のアレゴリーは広々として果てしなく、読者は自由に寓意を読みとることが許されるでしょう。
山椒魚ではない私たちは、自由を謳歌しているように思えます。
しかし、本当でしょうか。
私たちは常に何かしらの「制度」の内側に閉じ込められてはいないでしょうか。
そんな「制度」の例をいくつか挙げてみましょう。
科学技術に依拠する文明生活
成長神話から脱却できない資本主義経済
気候変動により激変している(とされる)地球環境
私たちは、科学技術文明以外の生活様式、資本主義以外の経済システム、地球以外の惑星を選択して生きることが現実的に可能でしょうか。
ただし、これらはひとりの人間の生涯という短い射程では抜け出せなくても、人類史という長いスパンでは(論理的に)脱出可能でしょう。
とはいえ、ひとつの「制度」から離脱しても別の「制度」に編入されることは免れません。
「言語」
意識的で明晰な思考は言語を用いて構築されつつ、言語によって制約されます。
言語の外に出て、言語を使わずに思考することは可能でしょうか。
これも、ある言語から抜け出すことは可能ですが、その時には別の言語に取り込まれることになります。
非言語的思考、身体的思考とよばれるものがあります。
しかし、それが言語的思考に全面的に取ってかわることはできるのでしょうか。
「意識」
意識の外側にあるとされる物自体Ding an sichの世界も、その情報が感覚器官と脳神経系によって処理されて、意識の内部で主観的世界として再構成されています。
自分の意識の外側に出て、世界そのものを直接無媒介にとらえることはできるのでしょうか。
「直観」があるではないかと考えるかも知れません。
しかし「直観」も自分の意識の存在が前提されています。
「今」
私の存在する時間はいつでも「今」であり、過去にも未来にも私は存在することができません。
昨日の私にとって昨日は「今」でしたし、明日の私にとっては明日が「今」となります。
「ここ」
私の存在する場所は、どこへ行っても「ここ」という場所であり、それ以外の場所に存在することができません。
たとえば、私が岐阜にいれば岐阜が「ここ」であり、私が東京に移動すれば東京が「ここ」となります。
どこに行っても私のいる場所は常に「ここ」です。
実は「意識」「今」「ここ」は「私」に集約することができます。
「私」をそれぞれの機能・はたらきに基づいて言い換えたのが「意識」「今」「ここ」です。
したがって、この3つは、私は「私」から抜け出すことができるのかという問いに他なりません。
いかがでしょうか。
文学から出発して、歴史学に触れつつ、最後は哲学の問いに逢着しました。
私たちはさまざまな「制度」に閉じ込められているのではないでしょうか。
うかうかと山椒魚に憐憫の情を起こしている場合ではありません。
井伏が「山椒魚」を書いた意図は小説には明示されていません。
しかし、作者本人の意図を離れて寓意をあれこれと考えることができます。
それが古典的名作の持つ豊饒な生命力です。
作家が伝えようとしていることを超えて、読者がさまざまに寓喩を考えることができ、それぞれに意味を汲み出すことができる作品こそ、古典の名に値するでしょう。
おしまいに、「山椒魚」の一節を引用します。
彼〔=山椒魚〕は深い歎息をもらしたが、あたかも一つの決心がついたかのごとく呟いた。
「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」
しかし彼に何一つとしてうまい考えがある道理はなかったのである。