薬師寺と垂井宿(林)
「美濃の西陲を訪ねて」の4回目です。
2日目は垂井町表佐(おさ)の薬師寺から始まります。
こちらは平安前期の貴族、在原業平ゆかりの寺とされます。
在原業平は西暦825年に生まれ、880年に亡くなります。
父は平城天皇の皇子阿保親王、母は桓武天皇の皇女伊登内親王です。
したがって皇族のひとりですが、826年に阿保親王の上表によって在原の姓が与えられて臣籍に下りました。
業平は和歌の名手で、六歌仙と三十六歌仙のひとりに数えられます。
また古くから『伊勢物語』の「昔男」のモデルとされていることもよく知られていますね。
薬師寺は在原業平が美濃権守に任ぜられたときに館を築いた場所とされます。
美濃国府から直線距離で3kmほどです。
元慶4年(880年)に業平が亡くなると、陽成天皇の勅願で館の跡に業平寺が建立されます。
その後、1782年に永平寺47世天海薫元が再興し、曹洞宗の在原山薬師寺として現在に至るということです。
画像1は『日本三代實録』(信州大学図書館所蔵)元慶4年5月条です。
在原業平が5月28日に死去したことを伝えています。
該当する部分を書き抜いておきましょう。
「廿八日辛巳、従四位上・行右近衛権中将・兼美濃権守在原朝臣業平(中略)卒」
位階は従四位上で、官職は右近衛権中将と美濃権守を兼任した在原業平が28日(かのとみの日)に亡くなったと記されています。
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100347535
画像2は薬師寺の参道です。
左側に「在原業平朝臣史蹟 薬師寺」という立派な石柱が立っています。
画像3は薬師寺の入り口に設置されている「在原山薬師寺の由来」を記した石碑です。
2007年に建立されたそうです。
画像4は薬師寺の本堂です。
午前の明るい陽光のもと、境内はひっそりと静まっています。
画像5は薬師寺の西隣を流れるクリークに架かる橋です。
業平橋と名付けられています。
業平橋と聞けば東京都墨田区のそれが想起されますが、垂井でお目にかかることができるとは意外でした。
薬師寺の次は中山道垂井宿をめざします。
途中、美濃路の美しい松並木の下を通りました。
美濃路は中山道垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)と東海道宮宿(愛知県名古屋市熱田区)とを結ぶ全長約58kmに及ぶ街道です。
中山道の木曽谷、東海道の鈴鹿峠や七里の渡しといった難所を避けることができるため、多くの人が好んで通行したほか、大名行列をはじめ、朝鮮通信使、琉球使節、お茶壷道中などにも利用される重要な街道であったそうです。
典拠:大垣観光協会「美濃路ガイド」https://www.ogakikanko.jp/minoji/
いよいよ垂井宿に到着です。
はじめにJR垂井駅前にある垂井町観光案内所に行き、垂井宿の見所を教えていただき、パンフレットやリーフレットを頂戴しました。
画像6は中山道垂井宿マップです。
これを携えて歩きます。
東の見附からゆるやかな坂道を下って垂井宿に入ります。
街道の南に「紙屋塚」があります。
奈良時代、ここに美濃国の官設抄紙場があったことから、美濃紙発祥の地とされています。
今は小さな祠がいまし、紙屋明神をお祀りしています。
街道筋には江戸時代の風情をしのばせる家屋が点在しています。
間口が狭くて奥行きが深い、町家と呼ばれる建物です。
とりわけ私を驚かせたのが画像7です。
こちらは先年に亡くなられた古井由吉氏の遠縁にあたる方がお住まいの家屋です。
古井由吉氏(1937年~2020年)は現代日本を代表する小説家・翻訳家で、ドイツ文学研究者としても知られます。
東京大学大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程を修了後、金沢大学と立教大学に奉職したのち、作家業に専念しました。
文学史的には「内向の世代」に位置づけられます。
文学と社会(政治)とを切り離し、文学の存立基盤をその内側から絶えず問いただし続けた古井氏は、日本の現代文学に新たな地平を切り拓き、若い世代の小説家に深甚な影響を及ぼしてきました。
画像8は古井由吉氏の前期を代表する『杳子・妻隠』です。
古井氏は「杳子」で第64回芥川賞を受賞しました。
古井文学を初めて読むという方にお薦めの作品です。
画像9は後期の代表作『辻』です。
古井氏の文学的歩みを示す里程標と言えるでしょう。
東京出身の古井氏のご親族が垂井にいらっしゃるとはまったく知りませんでした。
僥倖というほかない出会いに、しばらくは夢の中のごとく感慨にふけりながら街道を彷徨しました。
最後の画像10は垂井宿の西の見附から東に撮影しました。
ゆるやかな下り坂が宿場へと続いています。
ここで垂井宿とお別れし、2日間の美濃西陲探訪を終えます。
ご高覧賜り、ありがとうございました。