美濃の西陲を訪れて①(林)
秋休みを利用して濃尾平野の西端(大垣市西部と垂井町)をめぐりました。
はじめに訪れたのは南宮大社。
こちらは有名なので省略します。
南宮大社の宝物殿(入場料100円)を参観し、案内の方に展示品をご説明いただきました。
宝物の中に三十六歌仙を描いた板絵があります。
そのひとり、在原業平はかつて美濃国守に任ぜられ、国府跡は南宮大社の北2kmほどのところにあるというお話を伺いました。
貴重な情報を教えていただいたので、後で訪れることにします。
つぎに訪ねたのは朝倉山真禅院です。
南宮大社から西へ900m、高低差40mほどの坂道を歩いて上ります。
本地堂、梵鐘、三重塔は国の重要文化財に指定されています。
真禅院はもともと南宮大社の南にあり、関ヶ原の戦いの際に焼失した後、徳川家光の時代に再建され、明治初年の神仏分離によって現在の地に移築されたということです。
近代に創造された「伝統」の一端を見る思いです。
南宮大社にはたくさんの人々が参拝していましたが、真禅院には一組のご家族がお参りされているだけでした。
画像1は南宮大社・朝倉山真禅院散策マップです。
続いては美濃国府跡。
南宮大社から北上し、中山道垂井宿を横切って相川を北に渡ります。
文化庁の文化遺産オンラインによると、国府の所在地は長らく不明でしたが、垂井町教育委員会の発掘調査によって判明しました。
国府の存続時期は8世紀中頃から10世紀中頃で、国府の造営と変遷の実態を良く示しているということです。
国府の中心建築である政庁の規模は東西が約67m、南北は時代により異なり、最大で約73mです。
その遺構は御旅神社の南にありますが、雑草に覆いつくされていて、様子を知ることができません。
冬に再訪したいと思います。
【参考文献】
文化庁文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218379
国府跡を訪ねたからには、国分寺跡にも行きましょう。
美濃国分寺跡は国府跡の東北東2.6kmに位置し、史跡公園として整備されています。
考古調査による出土品は隣接する大垣市歴史民俗資料館で観ることができます。
寺域の大きさは東西が約230m、南北が約205m。
塔は七重で、基壇の大きさから高さは60mほどと推定されます。
資料館でいただいたパンフレットの図面では、南門・中門・金堂・講堂が南北線上に並び、金堂の南東に塔が配置されています。
早稲田大学大学院文学研究科助手の高橋亘氏によれば、中門から派生した回廊が金堂にとりつき、伽藍中軸から東よりの回廊内に塔が配置される、「大官大寺式伽藍配置」とも呼称される形式です。
【参考文献】
高橋亘「塔跡からみた国分僧寺の伽藍配置(上)」(『WASEDA RILAS JOURNAL No.11』2024年1月)
画像2はパンフレットが記載する伽藍配置図です。
私が撮影した写真も御覧に入れましょう。
画像3は国分寺跡を南西側から撮影しました。
画像4は南門から北に向かって撮影。
南門・中門・金堂が南北線上に並んでいる様子がよくわかります。
画像5は金堂の基壇(建物の土台)の北西角から南東方向へ。
点在する石は柱があった場所を表しています。
画像6は金堂の南東に位置する塔の基壇です。
中央部の大きな石は心柱の礎石が置かれた場所を示しています。
国分寺跡を歩いていて、とても懐かしい気持ちになりました。
それは国分寺の空間構造が中国古代の宮殿建築の様式を踏襲しているからです。
その特徴は以下のとおりです。
①宮殿の南に正門がある。
②正門の左右から牆壁と回廊が延びて宮殿全体を囲繞する。
③正門を入ると中庭が広がる。
④中庭の奥に正殿が置かれる。
⑤建物はみな基壇(土台)の上に築かれる。
京都大学教授の岡村秀典氏によれば、こうした空間構造を持つ宮殿建築は紀元前2100年頃~1800年頃に黄河中流域で栄えた二里頭文化の第3期に始まり、歴代の中国王朝に継承されていきます。
【参考文献】
岡村秀典『夏王朝 王権誕生の考古学』講談社、2003年
岡村秀典『中国文明 農業と礼制の考古学』京都大学学術出版会、2008年
中国に留学しているころ、各地の宮殿遺跡を踏査してまわりました。
国分寺跡は当時を思い出させてくれました。
さて『日本三代実録』仁和3年(887年)6月5日条には、美濃国分寺が火災で灰燼に帰したため、殿堂宏麗(建物が大きく立派)な席田郡の定額尼寺を国分寺の代わりにしたいと国司が願い出て、許されたと記されています。
この定額尼寺も今は残っていませんが、その所在地は本巣市石原の八幡神社・津島神社あたりと伝えられています。
明日成本巣校のすぐ近くですね!
画像7は八幡神社・津島神社の境内です。
美濃国分寺跡に別れを告げて、昼飯大塚古墳と中山道赤坂宿に向かいます。
次回にお話ししましょう。