簫史・弄玉の昇仙と秦文化(林)

高校生の前期期末テストが近づいてきました。
ある高校では『列仙伝』の簫史〔しょうし〕と弄玉〔ろうぎょく〕の伝説が試験範囲となっています。

『列仙伝』は上下二巻、前漢時代の劉向(紀元前1世紀)の撰述とされます。
しかし、これについては南宋時代から疑義が呈され、余嘉錫(1884年~1955年)の『四庫提要辯証』は後漢の明帝以降で順帝以前の人が編著したと考えています。
この見解に従えば、『列仙伝』は西暦1世紀後半から2世紀前半頃に成立したことになります。

『列仙伝』には先秦時代から漢時代に「仙人」になった人々のエピソードが記されています。
簫史と弄玉の話は短いので全文を掲げて口語訳しておきましょう。

簫史者、秦穆公時人也。
善吹簫、能致孔雀・白鶴於庭。
穆公有女、字弄玉、好之、公遂以女妻焉。
日教弄玉作鳳鳴。
居数年、吹似鳳声、鳳凰来止其屋。
公為作鳳台、夫婦止其上、不下数年。
一日、皆随鳳凰飛去。
故秦人為作鳳女祠於雍宮中、
時有簫声而已。
簫史妙吹 鳳雀舞庭
嬴氏好合 乃習鳳声
遂攀鳳翼 参翥高冥
女祠寄想 遺音載清

簫史は秦の穆公時代(紀元前7世紀)の人である。
簫(竹笛)を吹くのが上手で、孔雀や白鶴を呼びよせることができた。
穆公に弄玉という娘がいて、簫史の演奏を好んだので、穆公は二人を結婚させた。
簫史は弄玉に毎日、鳳〔おおとり〕の音色の吹き方を教えた。
数年のうちに、鳳の声に似せて笛を吹くと、鳳凰がやってきて、屋根にとまるようになった。
穆公が鳳台という物見台を作ると、簫史と弄玉の夫妻はその台にとどまり、数年間降りてこなかった。
ある日、二人は鳳凰とともに飛び去ってしまった。
秦国の人たちが雍宮のなかに鳳女祠を作ると、
ときおり簫の音色が聞こえてくるのだった。
簫史が妙なる音色で吹くと、鳳や雀が庭に舞う
弄玉が心を合わせて、鳳の鳴き声を習いまねる
鳳凰の翼に乗って、高く仙界へと舞い上がる
鳳女祠に思いを寄せれば、残された音色が清らかに響く

さて、簫史と弄玉の昇仙はどうして鳳凰と結びつけて語られるのでしょうか。
今日はこの問題を少し考えてみたいと思います。
手がかりはふたりが秦国の人であることです。

秦国の始原について、『史記』秦本紀は次のように記しています。

秦之先、帝顓頊之苗裔。
孫曰女脩。
女脩織、玄鳥隕卵。
女脩吞之、生子大業。
大業取少典之子、曰女華。
女華生大費。(中略)
佐舜調馴鳥獣。
鳥獣多馴服。(中略)
大費生子二人。
一曰大廉、実鳥俗氏。(中略)
大廉玄孫曰孟戲・中衍、鳥身人言。

秦の祖先は、帝顓頊〔ていせんぎょく〕の末裔である。
顓頊の孫は女脩〔じょしゅう〕という。
女脩が機〔はた〕を織っていると、燕が卵を落とした。
女脩は卵を飲み込んで、大業〔たいぎょう〕を生んだ。
大業は少典の子の女華〔じょか〕を妻に迎えた。
女華は大費〔たいひ〕を生んだ。(中略)
大費は舜〔しゅん〕を助けて鳥や獣を調教した。
鳥や獣の多くが大費になついていた。(中略)
大費は二人の子を生んだ。
一人は大廉〔たいれん〕といい、鳥俗氏の祖先である。(中略)
大廉の玄孫は孟戯〔もうぎ〕と中衍〔ちゅうえん〕と言い、体が鳥で人間の言葉を話した。

要点をまとめましょう。
女脩は燕の卵を飲んで大業を生み、大費は鳥獣をよく調教し、大廉は鳥俗氏の祖であり、孟戯と中衍の体は鳥でした。
これは秦国の人々が鳥をトーテム(祖先神)としていたことを伝えているようです。

考古学的に見ると、秦の起源は西方に見出すことができます。
紀元前3500年頃から紀元前1000年頃、甘粛省〔かんしゅくしょう〕東部に展開した新石器文化は、
馬家窯〔ばかよう〕文化→斉家〔せいか〕文化→辛店〔しんてん〕文化
と系統づけることができます。
この諸文化の土器には鳥の紋様が多く描かれていて、彼らが鳥に対して特別な観念を持っていたことをうかがわせます。

近年、甘粛省清水県李崖遺跡で西周時代中期から後期(紀元前900年頃~800年頃)の墓葬が発見されました。
また、甘粛省礼県大堡子遺跡では西周時代後期の秦公墓と城郭、春秋時代初期(紀元前750年頃)の祭祀坑が発見されています。
これにより、従来は不明であった秦族の発祥地が、甘粛省東部であることがわかってきました。

秦族が鳥をトーテムとするのは馬家窯文化以来の伝統を継承したものであり、秦文化は黄河上流域の牧畜農耕社会と黄河中流域の農耕社会というタイプを異にするふたつの社会の交錯地帯、つまり文化接触地帯に形成されたと考えられます。
簫史と弄玉の伝説は、かれらの祖先たちが連綿と受け継いできた文化的伝統と響き合っていて、とても面白く感じられます。