湯川博士に導かれて(林)
夏休みが終わり、各中学校では前期末テストが実施されています。
先日、自習に来ている生徒たちから、
「ノーベル賞を受賞したのは湯川秀樹ですか?」
「川端康成は何をした人?」
と質問されました。
教科書的に説明すれば、湯川秀樹は1949年にノーベル物理学賞を、川端康成は1968年にノーベル文学賞を受賞しています。
21世紀の中学生にとって、ふたりは完全に歴史上の人物でしょう。
しかし、私が中学生の時、湯川はまだ存命でしたし、川端は1972年に物故していましたが、文学好きだった母の小さな書棚には川端の小説が置いてありました。
それゆえ、中学生の私にとってふたりは現代の人でした。
高校1年の国語の教科書に掲載されていた湯川秀樹の随筆は、今日に至るまで私に大きな影響を及ぼし続けています。
随筆には、湯川が旧制高等学校入学後、哲学書を読むようになったと書かれていました。
私は、湯川さんが西洋哲学ならば自分は東洋哲学をと思い、市立図書館に出かけて『荘子』を手に取りました。
『荘子』の思想はよくわかりませんでしたが、漢文で記された書物のなかに、自分の理解できない知の世界があるということに驚きを禁じ得ませんでした。
この『荘子』との出会いが、大学入学後に中国古代史を専門的に学ぶようになるきっかけのひとつになったと思われます。
私が『荘子』を読んだのは、湯川に刺激を受けながらも、同じことをしても仕方がないというへそ曲がりだったからです。
ところが最近、筑摩書房の『論理国語』という高校国語の教科書に、湯川秀樹の『荘子』という文章が掲載されていることに気づきました。
私が『荘子』を手にした時、湯川が『荘子』に関する文章を書いていたことは知りませんでしたが、偶然にせよ奇縁を感じます。
ところで、物理学の研究者が中国の古典に関する文章を書くということに戸惑いを覚える人がいるかも知れません。
しかし、彼の生い立ちや家族関係を知れば、納得されるのではないでしょうか。
湯川の祖父、浅井篤は紀州田辺藩の儒学者でした。
湯川の父、小川琢治は地質学者で、京都帝国大学文科大学の地理学講座を開いた人物です。
湯川の長兄の小川芳樹は冶金学者、次兄の貝塚茂樹は中国史学者、弟の小川環樹は中国文学者です。
小川琢治は京都帝国大学教授、芳樹は東京帝国大学教授、茂樹・秀樹・環樹は京都大学教授を務め、それぞれ学史に刻まれる優れた業績を残しています。
綺羅、星の如き学者一族ですね。
湯川秀樹の自伝『旅人 ある物理学者の回想』(角川文庫、1960年)には、
ある日──私が五つか六つの時だったろう──父は祖父に、
「そろそろ秀樹に、漢籍の素読をはじめて下さい」
と言った。
その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、むずかしい漢字のならんだ古色蒼然たる書物の中に残っている、二千数百年前の古典の世界へ入ってゆくことになった。
と記されています。
湯川は祖父・浅井篤の薫陶を受け、その高遠な知性が漢学的素養に裏打ちされたものであったことをうかがわせます。
貝塚茂樹の名著『孔子』(岩波新書、1951年)は、
わたくしたちの祖父の時代までは、『論語』は少なくとも学問をしようとする子どもたちにとって、必ず読まなければならない唯一の国定教科書であった、といっても言い過ぎではない(後略)
と述べています。
こちらは間接的ですが、やはり浅井篤の存在の大きさを彷彿とさせます。
大学入学後の私は、おもに貝塚茂樹や小川環樹の論文・研究書に親しんできましたが、それは湯川に導かれて見参したような気持ちでした。
最後に、湯川のある言葉を書いておきます。
人間の知性の在り方について、今も私に大きな示唆を与え続けてくれている言葉です。
自然は曲線を創り人間は直線を創る。
「自然と人間」(『詩と科学』平凡社、2017年などに収録)