桃のはたらき(林)

京都大学法学部在学中に『日蝕』で芥川賞を受賞した平野啓一郎さんは、私が愛読する小説家の一人です。
2022年10月23日に、平野さんと大萩康司さんが共演する「マチネの終わりに トーク&コンサート」が岐阜市のサラマンカホールで催され、私も鑑賞しました。

大萩康司さんは、平野さんが小説『マチネの終わりに』を執筆した際に助言したギタリストで、主人公の蒔野聡史のモデル(のひとり)と目されます。
サラマンカホールで大萩さんが奏でたギターはフランスのロベール・ブーシェ。
世界に154本しかない名器だそうです。

平野啓一郎さんが書いた小説の一つに『空白を満たしなさい』があります。
『モーニング』2011年40号~2012年39号に連載された後、講談社から2012年に単行本、2015年に文庫本が刊行されました。
2022年にはNHKがドラマ化して放送したそうですが、私は見ていません。

『空白を満たしなさい』の主人公、土屋徹生は生き返った男です。
自分はどうして死んだのか?
殺されたのか? それとも自ら命を絶ったのか?
死に至るまでの経緯を解明してゆく中で、徹生は「自分とは何か」という根源的な問題を追究し、幸福の意味を省察します。

『空白を満たしなさい』は平野啓一郎さんが提唱する人間観「分人主義」に基づいて書かれています。
詳しくは平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書2012年)をご覧ください。

さて、小説の本筋から離れて、私はあることに興味を持ちました。
徹生の息子、璃久(りく)が保育園で「どんぶらっこ」を使って友だちを生き返らせるという遊びをしたり、隣家で飼っている犬が「どんぶらっこ」で生き返り、頭に包帯を巻いた徹生が桃に乗っているという絵を描いたりしています。
「どんぶらっこ」とは川を流れてくる桃のことです。
璃久は桃が生き返り=よみがえりを媒介すると考えているようです。

『空白を満たしなさい』を読みつつ、私が連想したのは伊邪那岐命(イザナキノミコト=男神)と伊邪那美命(イザナミノミコト=女神)の神話です。

『古事記』に依拠して内容を紹介しましょう。

イザナキとイザナミは現在の日本列島にあたる島々(北海道と南西諸島を除く)を生んだ後、多くの神を生んでゆく。
ところが、イザナミは火の神を生んだ時に火傷をして、亡くなってしまう。
妻に会いたいと思ったイザナキは「黄泉の国」を訪れ、帰ってきてほしいと頼む。

イザナミは「もっと早く来てくださればよかったのに。私は黄泉戸喫(よもつへぐい=黄泉国の食事)をしてしまいました。でも現世に帰りたいと思うので、黄泉神に相談します。その間、私を見てはいけません」と告げる。

長い時間が経過する。
待ちきれなくなったイザナキは、見てはいけないと言われているのに、中に入ってしまう。
火をともして見ると、イザナミの身体は腐敗してウジ虫がわいていた。

イザナキは怖くなって逃げ出す。
それを知ったイザナミは「私に恥をかかせた」と言って、「予母都志許女(よもつしこめ=黄泉国の醜女)」に追いかけさせる。
さらに「千五百之黄泉軍(ちいほのよもついくさ=黄泉国の大軍)」も追いかけてくる。

イザナキは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の下まで逃げてくると、桃の実を3個取って投げつけ、黄泉の国の大軍を撃退する。
イザナキは桃の実に向かって、「私を助けてくれたように、葦原中国(あしはらのなかつくに)の人々が悩み苦しんでいる時には助けてくれ」と依頼した。

最後に追いかけてきたのはイザナミである。
イザナキは「千引石(ちびきのいわ)」で「黄泉比良坂」を塞ぎ、ようやく難を逃れた。
「黄泉比良坂」は出雲国の伊賦夜坂(いぶやざか)のことだという。

重要なところだけ、『古事記』の原文と書き下し文を載せておきます。
  逃来、猶追、到黄泉比良坂之坂本時、
  取在其坂本桃子三箇待撃者、
  悉迯返也。
  (中略)
  最後其妹伊邪那美命、身自追来焉。
  爾千引石引塞其黄泉比良坂。
  逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、
  其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃てば、
  悉く迯げ返りき。
  (中略)
  最後に其の妹の伊邪那美命、身自ら追ひ来たりき。
  爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞ふ。

こうしてイザナキは黄泉の国から帰ってきました。
私が興味を引かれるのは、あの世とこの世の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)に桃の木が生えていて、桃の実がイザナキの黄泉の国からの帰還(よみがえり)を助けたということです。
『空白を満たしなさい』でも、「桃」が「よみがえり」の媒介となっています。
現代日本文学の最前線に立つ平野啓一郎さんと、日本の物語の始まりに位置する『古事記』の神話とのつながりに、心を動かされます。

中国に留学していたころ、夏の初めに道ばたでいろいろな種類の桃が売られていました。
私が好んで買って食べていたのは、小ぶりでカリカリと固くて甘い桃です。


次回は『古事記』に見える「黄泉」観と「桃」観の由来について書きたいと思います。