東京文学散策~藪下通り・根津裏門坂編(林)
東京文学散策の4回目です。
森鷗外『青年』(1910~11年)の主人公、小泉純一は根津神社(ねづじんじゃ)の裏門から根津裏門坂(ねづうらもんざか)を西にのぼり、途中で藪下通り(やぶしたどおり)の急な坂を北上して毛利鷗村(鷗外本人がモデル)の家を覗いた後、団子坂(だんござか)を東に降りてゆきました。
私はこの逆コースをたどります。

画像1 藪下通り・根津裏門坂付近地図
赤色の線:団子坂 青色の線:藪下通り
水色の線:解剖坂 黄緑の線:根津裏門坂
藪下通り
森鷗外の旧居(観潮楼)の正門は東向きに作られています。

画像2 観潮楼正門跡
正門を出ると藪下通りです。
この道は本郷台地の東の際(きわ)を沿うように走っています。
したがって西側は高台、東側は崖下です。
『青年』は藪下通りを次のように描きます。
藪下の狭い道に這入る。
多くは格子戸の嵌まっている小さい家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。
右側は崩れ掛かって住まわれなくなった古長屋に戸が締めてある。
九尺二間(くしゃくにけん)というのがこれだなと思って通り過ぎる。
その隣に冠木門(かぶきもん)のあるのを見ると、色川国士別邸と不格好な木札に書いて釘附(くぎづけ)にしてある。
妙な姓名なので、新聞を読むうちに記憶していた、どこかの議員だったなと思って通る。
それから先きは余り綺麗でない別荘らしい家と植木屋のような家とが続いている。
左側の丘陵のような処には、大分(だいぶ)大きい木が立っているのを、ひどく乱暴に刈り込んである。
手入れの悪い大きい屋敷の裏手だなと思って通り過ぎる。
爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、又右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。
「九尺二間」は間口9尺(約2.7m)、奥行2間(約3.6m)という狭くて粗末な家。
「冠木門」は、冠木(かぶき=左右の柱の上部を貫く横木)を渡した、屋根のない門。

現在の藪下通りはアスファルトで舗装され、車一台が通れる広さに整備されていて、通りの両側にコンクリート造りのマンションや住宅が連なっています。
崖の下は文京区立第八中学校と汐見小学校です。
森鷗外・夏目漱石旧居跡
藪下通りをおりてゆくと日本医科大学のキャンパスが見えてきます。
大学の北端に沿うのは解剖坂。
いかにも医学と関係がありそうな名前です。
その坂を西にのぼりきって北に30mほど進むと、森鷗外・夏目漱石旧居跡です。
現在は日本医科大学同窓会の敷地となっています。

画像3 森鷗外・夏目漱石旧居跡

画像4 森鷗外・夏目漱石旧居跡の説明
森鷗外は1890年(明治23)9月から92年(明治25)1月まで、ここに住んでいました。
その後、観潮楼に転居します。
夏目漱石は1903年(明治36)1月にイギリス留学から帰国し、3月にここに越してきます。
その後、1906年(明治39)12月、文京区西片町に居を移しました。
この鷗外と漱石の旧居は現在、愛知県犬山市の博物館 明治村に移築され、一般に公開されています。

www.meijimura.com/sight/森鴎外・夏目漱石住宅/ から転載
根津神社
藪下通りをくだりきると、根津裏門坂です。
森鷗外記念館の正門から根津裏門坂との合流点までの距離は約500m、高低差は10mほどです。
根津裏門坂の名称は根津神社に由来します。
根津神社のホームページ(nedujinja.or.jp)に依拠して簡単に紹介しましょう。
根津神社は日本武尊の創建と伝えられ、かつては千駄木に社殿がありました。
江戸幕府の第5代将軍、徳川綱吉が1706(宝永3)年に現在の地に社殿を奉建しました。
神仏習合の時代には根津権現社と呼ばれ、明治期に神仏分離令によって根津神社と改称されて今日に至ります。
根津裏門坂
夏目漱石の愛読者ならば、根津裏門坂という名を目にすれば、「ああ、あの!」と思われることでしょう。
漱石が死去する前年に執筆、刊行した『道草』(1915年)にこの坂が登場します。
『道草』は漱石文学の中では珍しく自伝的色彩の濃い小説です。
翌年に執筆した『明暗』は未完のまま漱石が亡くなりました。
したがって『道草』は漱石が完結させた最後の小説でもあります。

冒頭を引用しましょう。
健三が遠い所から帰ってきて駒込(こまごめ)の奥に所帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。
健三は『道草』の主人公で漱石本人がモデル
遠い所とは漱石が留学していたイギリス
駒込の奥とは上述の森鷗外・夏目漱石旧居
漱石は1903年4月に旧制第一高等学校教授に任命され、東京帝国大学文科大学講師を兼任します。
次の場面は駒込の家から第一高等学校と東京帝国大学に歩いて通勤する様子を描いています。
ある日小雨が降った。
その時彼は外套(がいとう)も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、いつもの通りを本郷の方へ例刻に歩いていった。
すると車屋の少しさきで思いがけない人にはたりと出会った。
その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いてきたものと見えて、健三が行く手を何気なく眺めた時、十間ぐらい先からすでに彼の視線にはいったのである。
そうして思わず彼の眼をわきにそらさせたのである。
「思いがけない人」とは健三の養父、島田という男です。
漱石の幼年時代の年譜を略記します。
1867年 夏目直克と千枝の五男として生まれる
1868年 塩原昌之助の養子となり塩原姓を名乗る
1874年 養夫婦間の不和によりしばし生家に戻る
1876年 塩原家在籍のまま生家に引き取られる
1888年 塩原家から復籍して夏目姓となる
作品中の島田は塩原昌之助がモデルです。
彼は知らん顔をしてその人の傍(そば)を通り抜けようとした。
けれども彼にはもう一ぺんこの男の目鼻だちを確かめる必要があった。
それでお互いが二、三間の距離に近づいたころまた眸(ひとみ)をその人の方角に向けた。
すると先方ではもう疾(と)くに彼の姿をじっと見つめていた。
このあと健三は島田の存在に悩まされ苦しめられることになります。