東京文学散策~森鷗外記念館編(林)

東京文学散策の3回目です。
今回は文京区立森鷗外記念館(観潮楼跡)について記します。
画像1 森鷗外記念館(観潮楼跡)

観潮楼略史
森鷗外記念館は近代日本の文学者のうち、私が最も敬仰する森鷗外の旧居「観潮楼」の跡地にあります。
記念館で頂いたリーフレットに拠りつつ、紹介しましょう。

鷗外は1892(明治25)年、30歳で千駄木に居を構え、1922(大正11)年に亡くなるまで、30年にわたり家族とともに暮らしました。
そのすまいは団子坂(別名は汐見坂)の上にあり、家の2階からも品川沖が見えたことから、鷗外によって「観潮楼」と命名されました。

観潮楼は鷗外がひらいた歌会の会場としても使われます。
会には、石川啄木、斎藤茂吉、木下杢太郎なども参加し、鷗外からは西洋の最新の文学事情が伝えられました。

観潮楼は火災と戦災によって焼失し、現存しません。
旧正門の礎石と敷石
大イチョウ
三人冗語の石
などが今も残り、東京都指定旧跡「森鷗外遺跡」として文化財保護の対象となっています。
画像2 旧正門の礎石と敷石

1962(昭和37)年 鷗外生誕100年に「鷗外記念本郷図書館」が開館
2012(平成24)年 鷗外生誕150年を記念して「森鷗外記念館」が開館

森鷗外記念館の展示
記念館は地下1階、地上2階の3層からなります。
1階はエントランスと受付、ミュージアムショップ、カフェ
2階は図書室と講座室
地下1階は展示室1と展示室2、映像コーナー

展示室の常設部分では、幼少期から晩年まで、鷗外の生涯を写真、自筆原稿、書簡、遺品などでたどることができます。
さらに年2回ずつの「特別展」と「コレクション展」が開催されます。
私が訪れたときは、
コレクション展「鷗外の妹・喜美子の家族 ―森家と小金井家―」
コーナー展示「鷗外の弟・篤次郎と潤三郎」
が催されていました。
画像3「鷗外の妹・喜美子の家族 ―森家と小金井家―」チラシ(表)

画像4「鷗外の妹・喜美子の家族 ―森家と小金井家―」チラシ(裏)

東京方眼図
ミュージアムショップで森林太郎立案 東京方眼図を購入しました。
1909(明治42)年に春陽堂から刊行された東京市の方眼地図を復刻したものです。
「森林太郎」は鷗外の本名です。
画像5 東京方眼図

文京区立森鷗外記念館ウェブサイト・館蔵品紹介より転載
moriogai-kinenkan.jp/modules/collections/index.php?content_id=48&cat_id=7

鷗外の『青年』(1910~11年)は、

小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。

という一文から始まります。

その少し後にも、

純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。
二三歩すると袂(たもと)から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。

と書かれています。

この方眼地図を参照しながら鷗外や漱石の小説を読むと、登場人物がどこを歩いているのか、掌(なたごころ)を指すが如くわかります。
とりわけ鷗外の筆致の精確さには驚かされます。

『青年』に登場する鷗外
『青年』の中で、鷗外は観潮楼に暮らす自身を次のとおり諧謔的に描写しています。

爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、又右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。
ふいと左側の籠塀(かごべい)のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。
純一は、おや、これが鷗村(おうそん)の家だなと思って、一寸(ちょっと)立って駒寄(こまよせ)の中を覗いて見た。
干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿(さお)と紐尺(ひもじゃく)とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人の事だから、今時分は苦虫を咬(か)み潰したような顔をして起きて出て、台所で炭薪(すみまき)の小言でも言っているだろうと思って、純一は身顫(みぶるい)をして門前を立ち去った。

森鷗外記念館には2時間あまり滞在しました。
この後、千駄木・根津・弥生・向丘を歩きます。
続きは次回に。

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