東京文学散策~根津神社・新坂編(林)

東京文学散策の5回目です。

画像1 根津神社・新坂付近地図
 青色の線:藪下通り 黄緑の線:根津裏門坂
 赤色の線:新坂   水色の線:漱石の通勤路

根津神社
森鷗外の旧居、観潮楼(森鷗外記念館)から藪下通りをおりてきました。
終着点の前を走るのは根津裏門坂です。
夏目漱石『道草』で健三の養父、島田がのぼってきた坂です。
東に目を向けると、間近に石造りの鳥居が見えます。
根津神社の西口です。
さっそく境内に入ります。
私が訪れたのは3月末の日曜日。
まだ桜は咲いていませんが、大勢の参拝客でにぎわっています。

画像2 根津神社境内
nedujinja.or.jp/keidaiannai/より転載

森鷗外『青年』が描く根津神社
小泉純一は南側の表参道から入ります。

坂を降りて左側の鳥居を這入る。
花崗石(みかげいし)を敷いてある道を根津神社の方へ行く。
下駄の磬(けい)のように鳴るのが、好い心持である。
剝(は)げた木像の据えてある随身門(ずいじんもん)から内を、古風な瑞籬(たまがき)で囲んである。
故郷の家で、お祖母様(ばあさま)のお部屋に、錦絵の屏風があった。
その絵に、どこの神社であったか知らぬが、こんな瑞垣(たまがき)があったと思う。
社殿の縁には、ねんねこ袢纏(ばんてん)の中へ赤ん坊を負(おぶ)って、手拭(てぬぐい)の鉢巻をした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦(すく)めている。
純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向こうの小高い処には常磐木(ときわぎ)の間に葉の黄ばんだ木の雑(まじ)った木立がある。
濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭(いや)になったので、急いで裏門を出た。

鷗外の簡潔で力強く明晰な筆致にうっとりします。

鷗外と根津神社
鷗外と根津神社には少なからぬ縁があります。
ひとつ目は砲弾の台座。
鷗外は日露戦争に軍医として従軍しました。
その記念として砲弾を神社に奉納しています。
砲弾自体は第二次世界大戦中に金属供出されました。
台座だけが残り、現在は水飲み場に利用されています。
台座の裏には
戦利砲弾奉納 陸軍々医監森林太郎
という刻字が確認できます。

画像3 台座を利用した水飲み場

ふたつ目は住居。
鷗外は1889年に赤松登志子と結婚し、上野花園町に新居を構えます。
しかし90年に離婚し、鷗外は千駄木に転居しました。
前回紹介した森鷗外・夏目漱石旧居跡です。
上野花園町の旧居は1946年に水月旅館が購入し、72年には水月ホテル鷗外荘と改称されます。
2020年に水月ホテル鷗外荘が閉館し、22年に根津神社への移築工事が始まりました。
工事は今年秋に完了予定と聞いています。

『青年』の新坂
根津神社の赤い鳥居をくぐって石畳を南に出ると新坂(S坂)です。
森鷗外『青年』に登場するあの坂です。

純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。
二三歩すると袂(たもと)から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。
自分の来た道では、官員らしい、洋服の男や、角帽の学生や、白い二本筋の帽を被った高等学校の生徒や、小学校へ出る子供や、女学生なんぞが、ぞろぞろと本郷の通(とおり)の方へ出るのに擦れ違ったが、今坂の方へ曲がってみると、まるで往来(ゆきき)がない。
右は高等学校の外囲(そとがこい)、左は角が出来たばかりの会堂で、その傍(そば)の小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた処を通り過ぎると、土塀や生垣(いけがき)を繞(めぐ)らした屋敷ばかりで、その間に綺麗な道が、ひろびろと附いている。
(中略)
坂の上に出た。
地図では知れないが、割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。
純一は坂の上で足を留めて向うを見た。
灰色の薄曇をしている空の下に、同じ灰色に見えて、しかも透き徹(とお)った 空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡(むこうがおか)との間の人家の群(むれ)が見える。

方眼図は森鷗外考案の東京方眼図(前々回に紹介)
高等学校は旧制第一高等学校
会堂は1903年にアメリカ人宣教師ウェルボーンによって設立された東京聖テモテ教会

画像4 新坂の説明板

画像5 新坂 東(坂下)から西(坂上)

画像6 新坂 西(坂上)から東(坂下)

現在の新坂
現在の新坂の様子を記しておきましょう。
『青年』の小泉純一は西から東へ、新坂をおりて根津神社に入りました。
私は逆コースをとります。
根津神社の正門を出て東に向かい、新坂をのぼります。
右(北)は根津神社の敷地で、石塀を覆うように樹木が茂っています。
左(南)は一戸建ての住宅とマンションが並んでいます。
S字を曲がりきって直線的な坂道となるあたりで、根津神社の敷地が終わり、右手はマンションや住宅地に変わります。
左は住宅地が途絶え、高い石垣の上に金属柵が設けられています。
その内側は東京大学野球場です。
さらに東に進むと、道はゆるゆるとわずかにのぼりつつ、右手は住宅地、左手は東京大学の敷地が続きます。
道の終着点は丁字路になっています。
その北角に建つのが『青年』で「出来たばかりの会堂」と記されている東京聖テモテ教会です。

画像7 東京聖テモテ教会
www.nskk.org/tokyo/church/timothy/photo/2012-1b.jpgより転載

漱石の通勤路
夏目漱石が第一高等学校と東京帝国大学に勤務していたときに通っていたと思われる道を歩いてみましょう。
第一高等学校は1935年に東京帝国大学農学部と用地を交換し、現在の目黒区駒場に移転しました。
高等学校の旧校地には現在、東京大学農学部が置かれています。

新坂上の丁字路を左に折れると、北側は石垣と金属柵に囲まれた東大のキャンパスです。
70m歩いて東京大学地震研究所の正門に到着します。
さらに150m進み、突き当たりを右に曲がると、左側は東大のレンガ塀が続きます。
塀に沿って西へ80m行くと本郷通りに出ます。
片側2車線の大きな道路です。
本郷通りをレンガ塀沿いに南に80m歩けば、東京大学農学部の正門(農正門)に着きます。
新坂上の丁字路から380mくらい歩いてきました。

新坂上の丁字路に戻ります。
今度は丁字路を右に曲がります。
民家やマンション、コインパーキングなどに挟まれた細い道を180m歩けば、根津裏門坂の上、日本医大前という交差点に出ます。
交差点を渡ると、右(東側)は日本医科大学附属病院の壮麗な建物、左(西側)は日本医科大学の校舎などが建っています。
交差点から100mで前回触れた解剖坂、さらに30m歩いて森鷗外・夏目漱石旧居跡に到着です。
新坂上の丁字路からは約310mです。

画像8 森鷗外・夏目漱石旧居跡

漱石の思い
東京大学農学部の正門から森鷗外・夏目漱石旧居跡まで、およそ690m。
漱石はどんな気持ちで通勤していたのでしょう。
『道草』は次のように記しています。

彼の身体(からだ)には新しくあとに見捨てた遠い国の臭(におい)がまだ付着していた。
彼はそれを忌(い)んだ。
一日も早くその臭を振り落とさなければならないと思った。
そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足とにはかえって気がつかなかった。
彼はこうした気分をもった人にありがちな落ち着きのない態度で、千駄木から追分へ出る通りを日に二へんずつ規則のように往来した。

千駄木に起居していた頃の漱石は、イギリス留学中にこじらせた神経衰弱をいっそう悪化させて苦しんでいました。