東京文学散策~千駄木・谷中編(林)

東京文学散策の6回目です。

画像1 青鞜社発祥地・高村光太郎旧居跡地図

青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地

森鷗外・夏目漱石旧居跡から北北西に300m歩いて、神田白山通りの駒込学園前の交差点に出ます。
交差点を右に曲がって東に250m進むと、宏壮な高級マンションが建っています。
ここが青鞜社の発祥の地です。

画像2 青鞜社発祥の地

青鞜社は進歩的な女性たちが明治末期から大正初期に組織して活動した文芸団体です。
平塚らいてうの主唱で、木内錠子(きうちていこ)・物集和子(もづめかずこ)・保持研子(やすもちよしこ)らが1911年(明治44)に結成し、月刊雑誌『青鞜』を創刊します。

青鞜社結成の背景には、当時の女性が置かれた社会的地位がありました。
1898年(明治31)、明治民法が施行されます。
この民法では、妻は「無能力者」とされ、働くには夫の許可が必要であり、妻が働いて得た財産や実家からの持参財産などは夫に管理されました。

「夫婦同姓(同氏)」制度もこの民法によって始まります。
746条 戸主及び家族は其家の氏を称す
788条 妻は婚姻によりて夫の家に入る
と規定されています。
少し細かい説明をすると、この「氏」は家制度のなかでの「氏」です。
妻は夫が属する家に入るので、夫の家の氏を称するという規定です。
夫婦同姓(同氏)は1898年に創始された近代の制度であり、日本古来の伝統ではありません。

青鞜社は女性の社会的地位の向上と女性解放をめざし、文学を通して男性中心の法律としきたりに抵抗すると同時に、女性の人間としての権利を主張しました。

高村光太郎旧居
青鞜社発祥の地から東へ100m歩けば森鷗外記念館(観潮楼跡)です。
ぐるりと回ってきました。
観潮楼からさらに東へ70m、団子坂上で左に曲がり、400mほど北上すると高村光太郎の旧居跡です。

高村光太郎(1883~1956)は、仏師・彫刻家である高村光雲の長男として生まれ、詩人・歌人・彫刻家として名を馳せます。
千駄木の家には1912年(明治45)から、1945年(昭和20)に空襲で焼失して岩手県花巻市へ疎開するまで住んでいました。

画像3 高村光太郎旧居跡

本郷台地と上野台地
高村光太郎旧居跡から狸坂(たぬきざか)を東におり、道灌山下(どうかんやました)から道灌山通りを北東にのぼってJR西日暮里駅に向かうこともできます。
しかし私は再び団子坂上に戻ります。
その理由は「よみせ通り」を歩きたいからです。

団子坂下の交差点を東にわたり、110mほど進めばよみせ通りの南端に着きます。
このあたりは西の本郷台地と東の上野台地に挟まれた谷間になっています。
標高を比べてみましょう。
本郷台地は約21m、上野台地は約19m、よみせ通りは約6mです。

     画像4 本郷台地と上野台地
    (国土地理院地図から作成)

よみせ通りと藍染川(あいぞめがわ)
よみせ通りの前身は藍染川という川です。
藍染川は上駒込村(豊島区)の長池を水源とし、西ヶ原・中里・田端・根津・谷中などを通って、不忍池に注ぎ込んでいました。
典拠:文京ふるさと歴史館www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/p004325.html

画像5 (旧)藍染川の流れ(青い線)

藍染川は文学作品にも登場します。
まずは夏目漱石『三四郎』(1908年)
三四郎と里見美彌子は団子坂からおりてきます。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。
この川を沿うて、町を左に切れるとすぐ野に出る。
川はまっすぐに北へ通っている。
三四郎は東京へ来てから何べんこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。
美彌子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。

石橋のあたりが「よみせ通り」の南端にあたります。

優れたプロレタリア文学者であった宮本百合子(1899~1951)も「菊人形」(1948年)に藍染川を書いています。

田端の高台からずうっとおりて来て、うちのある本郷の高台へのぼるまでの間は、田圃だった。
その田圃の、田端よりの方に一筋の小川が流れていた。
関東の田圃を流れる小川らしく、流れのふちには幾株かの榛の木が生えていた。
二間ばかりもあるかと思われるひろさで流れている水は澄んでいて流れの底に、流れにそってなびいている青い水草が生えているのや、白い瀬戸ものの破片が沈んでいるのや、瀬戸ひき鍋の底のぬけたのが半分泥に埋まっているのなどが岸のところから見えていた。
(中略)
田圃のなかへ来ると、名も知れない一筋の流れとなるその小川をたどって、くねくねと細い道を遠く町の中へ入って行くと、工場のようなところへ出て、それから急に人通りのかなりある狭い通りへ出た。
そこには古い石の橋がかかっていた。そして石橋の柱に藍染川とかかれていた。
(中略)
藍染川と母たちがよんでいたその石橋のところが、ちょうど、谷中と本郷の境のようになっていた。
動物園から帰って来るとき、谷中のお寺の多いだらだら坂を下りて、惰力のついた足どりでその石橋をわたると、暫く平地で、もう一つ団子坂をのぼらなければ林町の通りへ来られなかった。

この石橋は上掲の『三四郎』に出てくる石橋と同じものでしょう。

森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』(1909年)には

僕は古賀の跡に附いて、始て藍染橋を渡った。

とあります。
この橋は根津神社の近くにありました。
鷗外の名作『雁』(1911年)にも藍染川が出てきます。

岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。

これは上野の不忍池近くのようです。

藍染川は水はけが悪く、氾濫を繰り返したため、1921年(大正10)から暗渠工事が開始され、道路になりました。
(前掲の文京ふるさと歴史館)

こうして藍染川は地上から姿を消し、『三四郎』と『菊人形』の石橋も『ヰタ・セクスアリス』の藍染橋も失われました。

よみせ通りと谷中銀座(やなかぎんざ)

画像6 よみせ通りと谷中銀座商店街

夕方のよみせ通りを南端から歩いていきます。
かつて川であったことを偲ばせるように、道路はゆったりとうねる曲線を呈しています。
道の左右には鮨屋、米屋、居酒屋、鮮魚店、角打ちの酒屋などたくさんのお店が並び、多くの人が行き交っています。

南端から350m進むと丁字路に出ます。
これを右に曲がれば谷中銀座商店街です。
よみせ通り以上に大勢の人が店先で飲食を楽しみ、にぎやかです。
日本人だけでなく、外国からの旅行客もたくさんいます。

人の波をかき分けながら150mほど東に行くと、夕やけだんだん坂。
40段程の階梯をのぼれば上野台地です。
ふり返ると、谷を挟んで本郷台地が見晴らせます。
ちょうど夕方でしたので、多くの人たちが西の空を撮影していました。
ここまで来ればゴールは間近。

夕やけだんだん坂の上からさらに上り坂が続きます。
100m歩いて6mのぼる勾配で、お昼からずっと歩きづめの足にはつらい坂です。
経王寺という日蓮宗のお寺の門前あたりからようやく下りになり、御殿坂をJR日暮里駅までおりてゴールです。

本日の全行程

画像7 田畑・千駄木・根津・谷中地図

歩数は19006歩、距離は15km。
たくさん歩きました。