星に願いを(林)
7月7日は七夕でした。
七夕の節句は古代の中国で生まれて、朝鮮半島やベトナム、日本に伝わりました。
漢字文化圏で広く行われてきた風習のひとつといえます。
日本の古典文学の中にも七夕はしばしば登場します。
今日は千年ほど前、中流貴族層に属する3人の女性が著したとされる『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『源氏物語』を紹介します。
七夕にどんな思いを託したのでしょうか。
まずは『蜻蛉日記』から。
作者は藤原道綱母、20歳から40歳までの21年間、時の権力者たる藤原兼家との結婚生活を書き綴りました。
天徳2年7月(958年)条は次のように記しています。
あさてばかりは逢坂とぞある。
時は七月五日のことなり。
ながき物忌みにさしこもりたるほどに、かくありし返りごとには、
天の川 七日を契る心あらば
星あひばかりの かげをみよとや
ことわりにもや思ひけん、すこし心をとめたるやうにて、月ごろになりゆく。
【現代語訳】
夫(藤原兼家)からの手紙には、「あさってころは逢坂だ(明後日に逢いにゆく)」と書いてある。
七月五日のことだ。
夫は長い物忌みのため家に籠もっているころで、私は返事としてこう歌を贈った。
天の川で織り姫と彦星が逢う七月七日
その日をお約束になるのは
一年に一度の逢瀬だけで
満足せよとのお考えですか
私の言い分をもっともだとも思ったのだろうか、夫は少し気にかけているようで、数ヶ月が過ぎてゆく。
これは、道綱母が兼家と結婚してから4年ほど経ち、兼家と愛人との関係がそろそろ終局にさしかかるころの記事です。
兼家から道綱母のもとに「七月七日に逢いにゆく」と手紙が来ます。
道綱母は七夕を引き合いに出して、1年に1度の逢瀬で我慢しろということかと歌を返します。
その歌が兼家の心を道綱母に向かわせたように日記は書き留めています。
次は『和泉式部日記』を。
作者は和泉式部とされます。
冷泉天皇の皇子(敦道親王)との恋愛を、贈答歌を中心に叙述した日記(もしくは歌物語)で、長保5年4月(1003年)から翌年1月までの10ヵ月間を記します。
かくいふほどに、七月になりぬ。
七日、すきごとどもする人のもとより、織女、彦星といふことどもあまたあれど、目も立たず。
かかる折に、宮の過ごさずのたまはせしものを、げにおぼしめし忘れにけるかな、と思ふほどにぞ、御文ある。
見れば、ただかくぞ、
思ひきや たなばたつめに 身をなして
天の河原を ながむべしとは
とあり。
さはいへど、過ごし給はざめるは、と思ふも、をかしうて、
ながむらん 空をだに見ず 七夕に
忌まるばかりの 我が身とおもへば
とあるをご覧じても、猶え思ひはなつまじうおぼす。
【現代語訳】
このように敦道親王と歌を贈答しあううちに、七月になった。
七日、色恋沙汰をしかけてくる人のもとから、織り姫と彦星を詠みこんだ恋歌がたくさん贈られてくるけれども、私は気にもかけない。
こういうときに、敦道親王は時機を逃さずにお言葉をかけてくださるのになあ、ほんとうに私のことをお忘れになってしまったのだわ、と思っているときに、敦道親王からお手紙が来る。
見ると、ただこのように、
思ってもみなかったことだ
織り姫に我が身をなぞらえて
天の河をもの思いにふけりながら
眺めることになろうとは
とお詠みになっている。
私をお忘れになってしまったのだと思ったけれど、敦道親王は時機を逃しなさらなかったようだわ、と思うのも、おもしろくて、
宮さまはご自身を織り姫になぞらえて
天の河がかかる空を眺めておられるでしょうが
私はその空をさえ見ません
織り姫(=宮さま)に避けられるほどの
我が身と思いますので
と和泉式部が詠んだ歌をごらんになるにつけても、敦道親王は和泉式部に愛想を尽かすことができそうにないとお思いになる。
7月7日、和泉式部のもとに、七夕にちなんだ恋文が多くの男たちから届きます。
しかし、彼女が心待ちにしているのは敦道親王の手紙だけで、他は一顧だにしません。
待ちかねた手紙は、敦道親王が自らを織り姫にたとえて、和泉式部に逢えないつらさを詠んだ歌でした。
和泉式部は、敦道親王が眺めているという空さえも見ることができないほどに私はつらいのだと嘆く歌を返して、親王の心を動かしたと記されています。
最後は『源氏物語』41帖「幻」
『源氏物語』は11世紀初め、紫式部が書いたとされる長編物語です。
七月七日も、例に変りたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれに眺め暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。
まだ夜深う、一所起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、前栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりて見わたさるれば、出でたまひて、
七夕の 逢ふ瀬は雲の よそに見て
別れの庭に 露ぞおきそふ
【現代語訳】
七月七日も、例年とはちがっていることが多く、管弦のお遊びなどもなさらずに、寂しくぼんやりともの思いに沈んでお過ごしになって、織り姫と彦星の逢瀬をともに見る人もいない。
まだ夜が深いうちに、光源氏はひとりでお起きになって、妻戸を押し開けなさると、庭の植え込みに露がたいそうぐっしょりと置かれて、渡殿の戸から通して見渡されるので、お出になって、
七夕の織り姫と彦星の
逢瀬ははるか遠くの出来事と見て
二人が別れに流す涙のように
庭に露が置かれることだ
光源氏は前年に最愛の妻、紫の上に先立たれ、失意の日々を送っています。
彼にとって、例年の行事は何の興味もそそらず、管弦の遊びも楽しみません。
光源氏は織り姫と彦星の逢瀬に思いをはせつつ、紫の上を偲んで歌を詠みます。
『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『源氏物語』を見てきました。
いずれもいとしい人に逢えない悲しみとつらさ、逢いたいという思いを七夕に託して歌を詠んでいます。
みなさんは七夕に何をお願いしましたか。