市場の営業時間(林)
『韓非子』の「買履忘度」についての3回目です。
今回は市場の営業時間について考えます。
はじめに『周礼(しゅらい)』という書物を取り上げます。
『周礼』は儒学の最も重要な書物(経書、けいしょ)の一つで、西周王朝(紀元前11世紀末~紀元前8世紀前半)の政治制度を記しているとされますが、実際には戦国時代(紀元前5世紀~紀元前3世紀)の儒学者たちが編纂したと考えられます。
それゆえ、『周礼』に書かれている内容は西周王朝の制度そのものではなく、戦国時代の諸制度をもとにして西周王朝に仮託した理想像と見るべきでしょう。
『周礼』地官・司市は次のように記します。
大市日昃而市、百族為主。
朝市朝時而市、商賈為主。
夕市夕時而市、販夫販婦為主。
大市は午後に市を開き、一般民衆を対象とする。
朝市は朝方に市を開き、商人を対象とする。
夕市は夕方に市を開き、行商人を対象とする。
朝と午後と夕方の3回に分けて市場を開くと規定しています。
『周礼』が編纂されたと思われる戦国時代の市場について、前漢の司馬遷(紀元前2世紀後半~紀元前1世紀前半)が著した『史記』を見てみましょう。
『史記』孟嘗君列伝に次のようにあります。
君独不見夫趣市朝者乎。
明旦、側肩争門而入、日暮之後、過市朝者掉臂而不顧。
非好朝而悪暮、所期者忘其中。
あなたはあの市場に出かける人々をご覧になりませんか。
明け方には肩をそばだてて先を争って門をくぐりますが、日没後に市場の前を通る者は手を振って呼びかけても見向きもしません。
朝が好きで日暮れが嫌いなのではありません。欲しいものがその中にないからです。
これによく似た話は『淮南子(えなんじ)』という書物にも見えます。
『淮南子』は紀元前2世紀中頃に淮南王(わいなんおう)の劉安(りゅうあん)が編著した書物です。
『淮南子』説林訓に、
朝之市則走、夕過市則歩。
所求者亡也。
朝に市場へ行く者は走り、夕方に市場を通り過ぎる者は歩く。
夕方の市場には欲しいものがないからである。
と記されています。
いずれも、朝の市場は品物がたっぷりあるので人を惹きつけ、夕方の市場は品物が売り尽くされているので相手にされないと言っています。
この二つの史料によって、戦国時代から前漢時代にかけて、朝から夕方まで開いていた市場があったと推測できます。
『周礼』地官・司市は、こうした状況をふまえて1日3回、市場を開くと規定しているのでしょう。
市が夜に開かれていたという史料もあります。
後漢時代の許慎が西暦100年に著した『説文解字』という漢字字書は次のように記しています。
邠、周大王国、在右扶風美陽。
从邑、分声。
豳、美陽亭、即豳也。
民俗以夜市。
邠(ひん)は、周の大王の国であり、右扶風(うふふう)の美陽(びよう)にある。
邑を構成要素とし、分は音を表す。
豳(ひん)は、美陽の亭がまさしく豳である。
民衆の風習として夜に市を開く。
唐時代の西暦728年に成立した『初学記』巻24が引用する桓譚(かんたん、紀元前後の人)の『新論』には、
扶風邠亭部、言本太王所処。
其人有会日以相与夜市。
如不為期、則有重災害。
扶風の邠亭部はかつて太王がいた場所であるという。
その地の人々は決められた日に集まって夜市を開いている。
もしも期日を守らないと、重大な災害が起こる。
とあります。
両書に見える「大王・太王」とは、西周王朝を建てた武王の曾祖父にあたる古公亶父(ここうたんぽ)のことです。
古公亶父は西周王朝の先王のひとりとして、尊崇を集めました。
邠(ひん)は古公亶父ゆかりの土地であり、西暦1世紀ころ、決められた日(おそらくは祭礼の行われる日)の夜に市が開かれていました。
ただしこれは定期市であり、都市の内部に置かれた常設市とは異なります。
上述の『周礼』地官・司市は1日に3回、市が開かれると規定していますが、歴史的事実として1日に4回、市が開かれた例もあります。
『後漢書』孔奮列伝に次のように見えます。
時天下擾乱、唯河西独安、而姑臧称為富邑。
通貨羌胡、市日四合。
時に天下は乱れ、黄河の西方だけが平安であって、姑臧県(こぞうけん)は豊かな都市と言われた。
羌胡(きょう・こ)の人々と交易し、市場は1日に4回開かれた。
これによれば、後漢の草創期(1世紀前半)、姑臧県(現在の甘粛省武威市)では1日に4回、市場が開かれ、西域の羌や胡と交易していたということです。
前に紹介した『洛陽伽藍記』「城東竜華寺」条には
趙逸云、「此台是中朝旗亭也。上有二層楼、懸鼓撃之以罷市。」
趙逸が言うには、「この台は後漢時代の旗亭であった。その上に二階建ての建物があり、太鼓を懸けてこれを撃って市場を終わらせたのである。」
と記されていました。
さらに、唐時代(7世紀~10世紀)のことになりますが、『唐令拾遺』関市令には、
諸市以日午、撃鼓三百声、而衆以合。
日入前七刻、撃鉦三百声、而衆以散。
およそ市では、正午に太鼓を300回撃って、人々を集合させよ。
日没前7刻に鐘を300回撃って、人々を解散させよ。
と見えます。
市場は営業時間が決まっていて、太鼓や鐘の音で開閉を知らせていたようです。
2回目に紹介した画像磚に描かれた市楼の太鼓は、まさしくその役割を果たしていたのでしょう。
これまでの内容をまとめます。
戦国時代から漢時代にかけて、市場は営業時間が決まっていました。
漢時代の市場は周囲を闤(かん)という壁に囲まれ、闠(かい)という門から出入りします。
市場の中央には市場を監督する市楼という建物があります。
市楼には太鼓が懸けられ、始業と終業の時刻を知らせていました。
『韓非子』「買履忘度」では、鄭の人が自分の足の長さを測った寸法書きを家に取りに戻っているうちに市場が終わっていて、履き物を買うことができませんでした。
原文では「及反市罷、遂不得履」と書かれています。
店の営業が終わっていたのではなく、市場そのものの営業が終わっていた(市罷)と書かれているところが注目点です。
『韓非子』「買履忘度」は寓話であって、実話ではありません。
しかし、その背景に歴史的事実が潜んでいることを「市罷」という表現が教えてくれます。
みなさんがふだん学んでいることは、随所に学問への入り口がある。
そのことに気づいてもらえるといいなと思い、3回に分けて中国古代の市場について書きました。
最後に『後漢書』方術列伝の不思議な話を紹介します。
費長房者、汝南人也。曾為市掾。
市中有老翁売薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中。
市人莫之見、唯長房於楼上覩之。
費長房は、汝南の人である。以前、市場の役人を務めていた。
市場のなかに薬を売る老人がいて、店先に壺を懸け、市場が終わると、いつも壺の中に飛び込んでいた。
市場の人でその様子を見たものはいなかったが、長房だけは市楼の上からこれを目撃したのである。
市場が終わるたびに店先に懸けていた壺の中に飛び込んでいたという薬売りの老人は、実は仙人でした。
壺の中には荘厳な御殿があり、おいしい酒と食べ物がいっぱいありました。
費長房はこのあと、老人から仙術を教えてもらうことになります。