天の祭り~その5(林)

前回のおさらい
中国の歴代王朝は都の南郊で天を祭ってきました。
その歴史に関して、前回は前漢の武帝による封禅について書きました。
武帝による天の祭祀は当時流行していた方士の方術にしたがった呪術的なものでした。

今回の内容
今回は少し寄り道をします。
前漢成立以来の伝統的な祖先祭祀が前漢後半期に儒学の礼説(礼についての学説)によって批判され、変革されることについて論じます。

儒家と法家の併用
儒家官僚が政界に進出しはじめるのは武帝(在位前141~前87)の時代です。
ただし武帝は法家と儒家を使い分けました。

武帝の時代に『史記』を編著した司馬遷は法家的官僚を酷吏(こくり)と呼んでいます。
酷吏は私情を挟まずに法律を厳格に実行して人民を統治しました。
司馬遷は儒家的官僚を循吏(じゅんり)と呼びます。
循吏は道徳的な教化を通して人民を法律や政策になじませようとしました。
武帝は法家官僚を使って中央集権を断行し、儒家的政治理念によって統治を正統化したと言えます。

武帝の曾孫(ひまご)で第9代皇帝に即位したのが宣帝(在位前74~前49)です。
宣帝は、
漢家自有制度。
本以覇王道雑之。
漢の公室にはそれ自体の制度がある。
もともと覇道と王道を合わせ用いているのだ。
(『漢書』元帝紀)

と自ら述べたように、儒家の徳治主義(道徳を通して治める)と法家の法治主義(法律を用いて治める)とを組み合わせて統治しました。

儒家官僚の活躍
宣帝の子が第10代皇帝の元帝(在位前49~前33)です。
『漢書』元帝紀によると、彼は温和で慈愛に富む性格でした。
皇太子であったとき、父親の宣帝に対して、
陛下持刑太深、宜用儒生。
陛下は刑罰を用いることが厳しすぎます。
儒学者を登用なさるとよいでしょう。

と進言して、宣帝から激しく𠮟責されるということがありました。

元帝の子が第11代皇帝の成帝(在位前33~前7)です。
『漢書』成帝紀は、
壮好経書、寛博謹慎。
成人して儒学の経書を好み、寛大で慎み深い人柄であった。

と記しています。
彼らの時代に儒家官僚が政権の中核を構成し、儒家思想にもとづいて国家の儀礼・祭祀が改革されます。

郡国廟の設置
宗廟(そうびょう)は祖先の霊を祭る施設です。
前漢は前期から中期にかけて、全国各地に皇帝の霊を祭る宗廟を建てて祭祀を行ってきました。
これを郡国廟(ぐんこくびょう)といいます。
祭られたのは次の四人です。
 高祖の父親である太上皇(たいじょうこう)
 初代皇帝の高祖(在位前202~前195)
 5代皇帝の文帝(在位前180~前157)
 7代皇帝の武帝(在位前141~前87)
前1世紀後半の元帝の時代には全国に合わせて167か所の郡国廟がありました。

郡国廟の廃止を提言
『漢書』郊祀志には以下のように記されています。
元帝は儒学を好み、貢禹(こうう)、韋玄成(いげんせい)、匡衡(きょうこう)らが相次いで大臣となった。
貢禹は「漢王室が宗廟を祭る方法は古来の礼式に合わないものが多くあります」と建言し、元帝は貢禹の言葉を正しいと認めた。
後に韋玄成が宰相になると、郡国廟を廃止することが議論され、高祖の父である太上皇や2代皇帝の恵帝をはじめとする陵墓の旁らにある宗廟はみな廃止された。

『漢書』韋玄成伝には、丞相の韋玄成、御史大夫の鄭弘(ていこう)、太子太傅の厳彭祖(げんほうそ)、少府の欧陽地余(おうようちよ)、諫大夫の尹更始(いんこうし)ら70人の意見として、
「春秋の義」によると、分家は父を祭らず、臣下の家は君主を祭らず、地方の諸侯は王を祭りません。
私どもは愚かですが、郡国にある宗廟の祭祀は行うべきではないと考えます。
どうぞ再び行わないようお願い申しあげます。

と記されています。

儒学の礼説
彼らがよりどころにした「春秋の義」と同じ趣旨は、以下のとおり儒学の経典に記されています。

『礼記』喪服小記(そうふくしょうき)
庶子不祭祖、明其宗也。
分家が始祖を祭らないのは、誰が祭祀を継承してゆく本家であるかを明らかにするためである。

『礼記』郊特牲(こうとくせい)
諸侯不敢祖天子、大夫不敢祖諸侯。
而公廟之設於私家、非礼也。
諸侯は天子を祖神として祭らず、大夫(=貴族)は諸侯を祖神として祭らない。
公室(国君の家)の宗廟を貴族の家に設けるのは礼に反する。

『礼記』曲礼(きょくらい)
支子不祭、祭必告于宗子。
分家は祖神を祭らない。
祭るときは必ず本家に告げて祭る。

『春秋左氏伝』僖公(きこう)31年
鬼神非其族類、不歆其祀
祖先の神々は同族の者が祭らないと、その祭りを受け入れない。

『論語』為政
非其鬼而祭之、諂也。
自分の祖先でないものを神として祭るのは、へつらいである。

宗法(そうほう)のさだめ
儒学の礼説の趣旨は次のようにまとめられます。
ある一族(宗族といいます)の祖先祭祀はその一族だけが行うことができます。
よその一族の祖先祭祀に参加することはできません。
同じ一族のなかでも嫡流の本家が中心となって祭祀を行います。
分家は本家の祭祀に協力し、助けます。

この規範を宗法といいます。
そのねらいは、
代を重ねるごとに分族・再分族をくり返して、一族を増やす。
嫡流本家の権威を高め、祖先祭祀を媒介に一族の結束を強化する。
ということにあります。

郡国廟廃止の意義
前40年、元帝は儒家官僚の提言に従って郡国廟を廃止しました。
国家の伝統的な祭祀制度が儒学の礼説によって批判されて改められたという点が重要です。
高校の世界史でも言及される儒学(儒教)の国教化は、このような過程を経て実現してゆきます。

今回のまとめ
前漢建国以来の郡国廟という祖先祭祀は、元帝時代に批判されて廃止されました。
その理論的な根拠は儒学の礼説でした。
次回は方術的な天の祭祀が批判され革新されることについて論じます。