天の祭り~その3(林)

前回のおさらい
5月14日に中国の習近平国家主席とアメリカのトランプ大統領が北京市の南にある天壇公園を訪れました。
天壇は明(1368~1644)と清(1616~1912)の皇帝が天を祭祀する場所で、都(みやこ)の南に位置します。
天を祭る場所はどうして都の南にあるのでしょうか。

このテーマに関して前回は前漢前半期の天の祭祀を考えました。
まとめると次のとおりです。
漢高祖が行った天の祭りは五行思想に基づいています。
漢文帝が行った天の祭りは呪術的な性格を持っています。

今回の内容
前2世紀後半から前1世紀前半、漢の武帝(ぶてい)による太一(たいいつ)の祭祀について考察します。
依拠する資料は前回と同じく、
司馬遷『史記』(前91年ころ完成)
班固『漢書』(西暦80年ころ完成)
です。
原文は割愛します。

太一の祭り
武帝は文帝の孫で、第7代皇帝です。
武帝は秦の始皇帝のあとを追うかのごとく、方士(ほうし)の言葉に耳を傾け、仙人に会おうとしたり、不老長生を得ようとしたりします。

謬忌(びゅうき)という人が太一を祭る方法を献言して、こう言います。
天神のなかで尊いのは太一です。
太一の補佐を五帝といいます。
いにしえは天子が春と秋に太一を東南の郊外で祭りました。

前133年、武帝はこの献言に従って長安の東南郊に太一の祭壇を設けます。

前113年に武帝が雍(春秋戦国時代の秦の首都)で五帝を祭ったとき、
五帝は太一の補佐です。
太一(の祭壇)を設けて陛下がご自身でお祭りすべきです。

と述べる人がいました。
しかし武帝は疑わしく思い、その言葉には従いませんでした。

続いて山東半島出身の公孫卿が上言します。
今年(前113年)、汾陰(ふんいん)から宝鼎(青銅器の一種)が掘り出されるという吉祥がありました。
この冬の辛巳(かのとみ)の日はついたちで、冬至にあたります。
これは黄帝(こうてい)の時と同じなのです。

※このころは冬10月が歳首(新年の始まり)

公孫卿はさらに札書(木の札に記された書物)を示します。
そこには、黄帝が宝鼎を得たのち、天に昇って仙人となったと書かれていました。

黄帝は五行思想にいう天帝のひとりです。
いっぽうで、中国で最初の帝王であるとも伝えられていました。
それゆえ、司馬遷『史記』第1巻の五帝本紀は、黄帝の事績から叙述が始まります。

札書に興味を懐いた武帝は、公孫卿を呼んで話を聞きます。
公孫卿は、
黄帝は甘泉で諸々の神々と会いました。
黄帝は首山から銅を採掘して、荊山のふもとで鼎を鋳造しました。
鼎ができあがると、龍が降りてきて、黄帝を迎えました。
黄帝は龍にまたがり、天に昇ってゆきました。

と述べます。

これを聞いて武帝は、
ああ本当に黄帝と同じようになれるなら、私は草履を脱ぎ捨てるように、妻や子を捨て去ろう。
と応じます。
こうして武帝は長安の北西70kmにある甘泉に太一の祭壇を築き、前112年11月辛巳朔(かのとみ ついたち)冬至の日の早朝に、みずから太一を祭りました。

太一について
太一は太乙、泰一、大一とも表記されます。
太一は世界・万物の根源とされ、『礼記(らいき)』『荀子(じゅんし)』『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』『淮南子(えなんじ)』など、戦国時代から前漢時代のさまざまな書物に登場します。
中国古代の宇宙観を教えてくれる『史記』天官書(てんかんしょ)によれば、太一の宮殿は天空の北極にあったとされます。

1993年に湖北省荊門市郭店の一号楚墓から戦国時代中期(紀元前4世紀ころ)の竹簡(竹の札に記された書物)が800枚あまり出土しました。
その中に『太一生水(たいいつせいすい)』という文献があり、太一から宇宙が生成されるという哲学的思想が述べられています。
これについては別の機会に論ずることにします。

今日のまとめ
今日は前漢の武帝による太一の祭りについて書きました。
内容をまとめておきましょう。

武帝は太一の祭祀を始めます。
太一は、それまで祭祀されてきた青・赤・黄・白・黒の五帝を超える最高神と目されます。
武帝はまた、最初の帝王とされる黄帝にならって登仙(仙人になって天にのぼること)を願い、太一をみずから祭りました。
次回は武帝が挙行した封禅(ほうぜん)という祭祀儀礼について考察します。