天の祭り~その1(林)
5月13日~15日、アメリカ合衆国のトランプ大統領が中国を公式訪問しました。
14日には人民大会堂で習近平国家主席と会談した後、両首脳は北京市南部の天壇公園を訪れました。
天壇は明(みん、1368~1644)と清(しん、1616~1912)の皇帝が天を祭祀する場所で、帝都の南に位置します。
天を祭る場所はどうして都の南にあるのでしょうか。
今日はこのテーマに関して、中国古代の殷時代から秦時代の祭祀を考えます。
殷の帝(てい)
同時代の文字資料が確認されている中国最古の王朝は殷(いん、前16世紀~前11世紀)です。
殷の人々は祖先を神として祭るとともに、至上神として帝(上帝または上下帝)を想定していました。
ただし、帝は絶対的な存在であるため、人間からの祭祀を受けず、人間は占いを通じて帝の意思を確認していたと推定されます。
周の天(てん)
紀元前11世紀末ころに殷を滅ぼしたのが周(しゅう、前11世紀~前3世紀)です。
周の人々は天を至上神とみなしました。
天は物理的な空(そら)であるだけでなく、この世界をつらぬく摂理(せつり)でもあり、万物の主宰者でもあると考えられました。
『礼記』(らいき)や『周礼』(しゅらい)といった儒学の経書(けいしょ)は、「周王朝の祭祀」について記しています。
しかし、それは戦国時代以降の儒学者たちが周王朝に仮託して編制した祭祀体系と考えるべきでしょう。
したがって、経書から周王朝の祭祀を復元することには注意が必要です。
ただし歴史的にみると、経書に記された祭祀儀礼は漢以降の歴代王朝による祭祀の理論的根拠となってゆきます。
春秋戦国時代の秦の上帝祭祀
秦は紀元前8世紀前半に中国の西方、黄河の支流である渭水(いすい)の流域に建国されます。
前漢の司馬遷が編著した『史記』秦本紀・十二諸侯年表・六国年表に依拠して、春秋戦国時代における秦の祭天を整理しましょう。
※秦本紀は秦国の年代記
十二諸侯年表は春秋時代の年表
六国年表は戦国時代の年表
前770年 襄公が西畤を作り、上帝を祭る
前756年 文公が鄜畤(ふし)を作る
前672年 宣公が密畤を作る
前422年 霊公が上畤と下畤を作る
※畤(し)は祭壇(まつりのにわ)
なお、『史記』封禅書(ほうぜんしょ)には、
襄公が西畤を作って白帝を祭る
文公が鄜畤を作って白帝を祭る
宣公が密畤を青帝を祭る
霊公が上畤と下畤を作って黄帝と炎帝を祭る
と記されています。
これは五行思想(ごぎょうしそう)に基づいています。
五行思想は、この世界は木・火・土・金・水という5つの元素から成り立っており、この5元素の消長によって、あらゆる事物が発生して変化し、推移すると説明します。
5元素は色や方角にも対応し、
木=青=東
火=赤=南
土=黄=中央
金=白=西
水=黒=北
と割り当てられます。
五行思想によれば、天帝は5人いることになります。
ただし、五行思想は戦国時代に形成されます。
したがって、秦が春秋時代から白帝、青帝、黄帝、炎帝(赤帝)を祭っていたと伝える封禅書の記事は疑問です。
春秋時代の秦が祭っていたのは上帝であり、戦国時代になってから、五行思想に依拠して古い記録を書き改めたと推定されます。
秦の始皇帝の封禅(ほうぜん)
前221年に秦が中国を統一します。
そのときの秦王は嬴政(えいせい)という名です。
彼は新たな君主号として「皇帝」を創始します。
彼が始皇帝です。
始皇帝は前219年に山東半島の泰山(たいざん)で封禅を行います。
泰山の山頂で行う天の祭祀を封、ふもとの梁父(りょうほ)という小さな丘で行う地の祭祀を禅といいます。
この封禅は天地の祭祀とされますが、一方で山東半島で活動していた方士(ほうし)と呼ばれる人々が唱える不死登仙の儀式とも関係が深いと思われます。
方士は、不老長寿の仙薬を作ったり、仙人になることを求めたり、予言を行ったりする人々です。
始皇帝自身も、仙人に会おうとしたり、不老不死を得ようとしたりしていました。
そのことは『史記』秦始皇本紀に記されています。
以上から、始皇帝による天の祭祀は呪術的色彩の強い儀礼であったと考えられます。
次回は前漢時代の前半(前3世紀末~前2世紀末)における天の祭りをとりあげます。

