墨俣の紫陽花(林)

先週、身体がアイスクリームのように溶けてしまいそうな炎天下に、大垣市墨俣へ紫陽花を見に行きました。

色とりどりの紫陽花
有名な犀川沿いの桜並木の根元に紫陽花は植栽されています。
灼熱の太陽のもとでも、紫陽花は桜の緑蔭に護られて、しっとりと水気を含んで色鮮やかに咲いていました。
撮影した花をご覧ください。

模擬天守
せっかく墨俣に来ましたので、町を歩きましょう。
平日のためか、模擬天守(1991年完成)は訪れる人もなく、むなしく聳え立っています。

美濃路
模擬天守から200mほど南へ歩くと、美濃路(美濃街道)の墨俣本陣跡を案内する石碑が置かれています。

美濃路は中山道垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)と東海道宮宿(愛知県名古屋市)とをむすぶ約60kmの脇往還(脇街道)です。
垂井宿と宮宿の間には、大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清須の六宿がありました。
(名古屋を入れると七宿)

美濃路は脇往還とされていました。
しかし、中山道の木曽谷、東海道の鈴鹿峠と七里の渡しという難所を通らずにすむため、江戸と京都の往来には、東海道から美濃路を経由して中山道を通るルートが好んで利用されたそうです。

美濃路のルート
https://www.city.nagoya.jp/nishi/cmsfiles/contents/0000127/127856/minojimap-map.pdf
より抜粋

脇本陣跡には民家が建っています。
ただし、脇本陣は1891年(明治24)の濃尾震災の際に倒壊し、現存するのはその後に再建された家屋だと聞きました。

鎌倉街道
本陣跡から南へ1kmほど歩けば墨俣町上宿の集落です。
犀川の堤防を降りると、古い街道を彷彿とさせる曲線を描いて、道路が西に伸びています。
おやおや?と思って歩いてゆくと、鎌倉街道でした。

鎌倉街道は古代から中世に整備された幹線道路です。
京都から東山道を経由して美濃国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋、入方、墨俣町二ツ木を通り、上宿で長良川を渡って、羽島市、尾張国の黒田(一宮市)、下津(稲沢市)などを経て東海道に合流し、鎌倉に通じています。

大海人皇子の伝説
『宇治拾遺物語』(13世紀前半に成立)の巻15には、壬申の乱の際、大海人皇子が墨俣の渡しで女性に助けられて難を逃れたという話が載っています。
壬申の乱(672年)は大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の子)による皇位継承争いです。

長いので原文は省略し、私製の現代語訳だけ記します。

大海人皇子が美濃国の墨俣の渡し場に舟もなくてお立ちになっていたときに、
女が大きな桶に衣を入れて洗っていたので、
「この渡しをなんとかして渡してもらえないか」
と皇子がおっしゃると、
女は、
「一昨日、大友皇子のお使いという者が来て、
渡し場の舟をすべて隠していったので、
ここを渡してさしあげても、
この先の多くの渡し場をお渡りにはなれないでしょう。
相手はこのように手配していて、
今にも軍勢が攻めてくるので、
お逃げにはなれないでしょう」
と申しあげた。

大海人皇子が
「それではどうすればよいのか」
とおっしゃると、
「お見受けしたところ、
あなたはふつうの人ではいらっしゃらない。
それでは隠してさしあげましょう」
と女は申しあげて、桶をひっくり返し、
その下に大海人皇子をお隠しして、
その上から布をたくさんかぶせて、
水を汲みかけて洗っていた。

まもなく四五百人ほどの兵が来た。
「ここから人が渡ったか」
と女に尋ねると、
「身分の高い人が、千人ほどの軍を率いておいでになりました。
今は信濃国にお入りになっているでしょう。
立派な龍のような馬に乗り、飛ぶようでいらっしゃいました。
この少人数では、たとえ追いついても、
みな殺されておしまいになるでしょう。
ここから帰り、大軍を集めて追いかけなさい」
と女が答えたので、
大友皇子の軍はなるほどと思って引き返した。

その後、大海人皇子が
「このあたりで兵を募れば集まるだろうか」
とお尋ねになると、
女があちらこちら走り回って、
その国の有力者を集めて説得したので、
すぐに二三千人ほどの兵が集まった。

大海人皇子がその兵を率いて大友皇子を追いかけなさり、
近江国の大津で追いついて戦うと、
大友軍が敗れて散り散りに逃げるうちに、
大友皇子はとうとう山﨑で討たれなさって首を取られた。
(中略)
墨俣の女は不破の明神でいらっしゃったとかいうことだ。

古代から中世まで、墨俣は都及び畿内と東国とを結ぶ要衝に位置する渡し場として重要な役割を担ってきました。
その歴史がこの伝説を生み出したと推定されます。

不破神社
壬申の乱の際に大海人皇子を助けた女性は不破明神の化身であったと、『宇治拾遺物語』は伝えています。
墨俣町上宿の不破神社はこの神をお祭りしているそうです。