国民が生まれるとき(林)
大リーグで大谷翔平選手が活躍したり、サッカーワールドカップで日本代表が勝利を収めたりすると、自分のことのように嬉しく思う人は少なくないでしょう。
ところで、大谷翔平選手やサッカー日本代表の選手たちと直接面識のある人はどれだけいるでしょうか。
言ってみれば「赤の他人」です。
それなのにどうして嬉しいのでしょうか。
どうしてって、「同じ日本人」だからでしょう!
という答えが返ってきそうです。
念のために書いておきますが、嬉しいと思うことが間違いだというのではありません。
でも、直接会ったり話したりしたことのない人なのに、どうして「同じ日本人」だと思うのでしょう。
ナショナリズムの基本書
ナショナリズム(nationalism)という言葉があります。
日本語では、民族主義、国民主義、国家主義などと訳されます。
ナショナリズムの起源と歴史、その特質と意味についての研究は枚挙にいとまがないのですが、その中でも基本となる研究書は次の2冊です。
歴史学者・哲学者アーネスト・ゲルナーの
『民族とナショナリズム』1983年
日本語訳は『民族とナショナリズム』岩波文庫、2026年
政治学者ベネディクト・アンダーソンの
『想像の共同体』1983年
日本語訳は『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007年
今日はアンダーソンの『想像の共同体』に依拠しながら「国民nation」について考えます。
「国民」は想像された共同体
国民とは歴史を超えた自然で恒久的なものであるという考え方があります。
これを本質主義といいます。
この立場をとる人々は、「日本人」や「ドイツ人」といった民族もしくは国民がずっと昔から存在したかのように語ります。
しかし、アンダーソンはこうした超歴史的な本質主義を批判して、
国民とはイメージとして描かれた想像の政治的共同体である
と定義します。
国民は「想像」の産物だとアンダーソンは言います。
なぜ「想像」なのでしょう。
どんなに規模の小さな国民であっても、それを構成する個人は他の大多数のメンバーのことを知らず、間接的に知る機会もなく、一生会うこともありません。
それなのに、国民は想像の中では生々しいリアリティーがあって、深い同胞意識によって結びついているからです。
アンダーソンが主張するのは、
国民とは歴史的な概念であり、自然にそこにあるのではない
どれほど古そうにみえる国民であっても、歴史的に人工的につくられたものである
ということです。
ある人が「自分は日本人(日本国民)だ」と考えるから「日本人(日本国民)」なのであって、そう考える枠組がなければ「別の人」もしくは「ただの人」です。
例えば、江戸時代に生きていた人は、「自分は日本人(日本国民)だ」という形では自己を規定してはいません。
「○○藩の□□村に住む××だ」などと思っていたことでしょう。
日本人(日本国民)という共同体
総務省統計局のデータによると、2026年6月1日現在で、
日本の総人口は1億2285万人
〈日本人人口〉は1億1925万人
です。
このうち、直接に顔見知りの関係にある人はどれくらいでしょうか。
大多数が互いに会う機会のない人ではないでしょうか。
それなのに、「私たちは同じ日本人(日本国民)だ」という気持ち、つまり「同じ国民nationという共同体に属している」という感覚を共有しています。
その感覚は「想像」によるものだ、とアンダーソンは言います。
ただし、想像の産物だというのは、偽物であるという意味ではありません。
その一体感が社会的・文化的に構築されるものだという意味です。
では、それはどのようなものとして想像されるのでしょう。
そして、どんなメカニズムがその想像を支えているのでしょう。
ナショナリズム以前
国民nationという意識は国民国家nation-stateの形成とともに創造された歴史的構築物です。
国民意識が創られる前、人々はおもにふたつの原理に基づいて自己の存在を規定し、意味づけていました。
ひとつは宗教共同体です。
キリスト教世界やイスラーム世界のように、人々は共通の聖典(聖書やクルアーンなど)と聖なる言語(ラテン語やアラビア語など)を仲立ちとして、広い領域をカバーする一つの共同体の一員であるという意識を持っていました。
もうひとつは世襲王朝国家です。
王は神から統治の権利を授かった存在とされ、その支配は血筋によって正統化されます。
王朝国家の国境は曖昧で、言語も文化も異なる多様な人々を臣民として支配します。
人々はこのふたつの原理によって世界の中に自分を位置づけ、生と死の意味を理解していました。
古い秩序の崩壊
しかし、西洋の歴史を例にとって説明すれば、宗教改革や啓蒙思想の広がりは、唯一絶対の真理という観念もしくは信念への疑いを生み、宗教の多元性が確固たる事実として定着してゆきます。
また、王族同士の血縁関係で結ばれた世襲王朝は、17世紀のイギリス革命と18世紀のアメリカ独立革命及びフランス革命によって、次々と崩壊してゆきました。
宗教共同体と世襲王朝国家という古い秩序が力を失ったとき、人々は
自分たちは何者であり
なぜこの共同体に属しているのか
という問いに対する、新たな答えを必要とします。
そこに現れたのが近代の国民国家です。
そして、死を超える連続性やその意味、共同体への帰属意識など、これまで宗教が担ってきた役割に関しても、ナショナリズムがその世俗的な代替物として登場します。
アンダーソンは、ナショナリズムが宗教と同様に、生と死に意味を与える原理となっていることを鋭く指摘しています。
想像の共同体
国民nationはどのようなものとして想像されるのでしょう。
アンダーソンは国民を4つの要素に分けて説明します。
国民は(イメージとして心の中に)想像される
どんなに小さな国民国家のメンバーでも、同胞の大多数を知ることはありません。
しかし、彼らの心の中には、互いに結びついているというイメージがあります。
国民は限られたものとして想像される
10億を超える人間を擁する巨大な国民でも、限られた国境を持ち、国境の向こう側には他の国民がいることを知っています。
どんな国民もみずからを人類全体と同一だとは思いません。
国民は主権的なものとして想像される
国民の概念は、啓蒙主義と革命が王権神授説に依拠する世襲王朝の正統性を破壊した時代に生まれます。
国民は国民国家を正統化する新たな基盤となります。
すなわち、国は国民である自分たちの国だと考えるのです。
国民はひとつの共同体として想像される
たとえ現実の社会にどれほど不平等や搾取が存在しても、国民は常に「水平的な、深い同志愛」として思い描かれます。
日本代表としての誇りを胸に試合に臨むというメンタリティは、この同志愛=仲間意識に由来します。
さらに戦争という非常時においては、「命をかけて国を守る」「国のためには死をも厭わない」という壮絶な思いに結実します。
「想像」を生むメカニズム
それでは「国民nation」という「想像」はどのようなメカニズムから生みだされるのでしょう。
人々が一体感を想像するためには、何かしらのメディア(媒体)が必要です。
アンダーソンは、18世紀から19世紀にかけて、「印刷資本主義print-capitalism」の産物である新聞や小説などのメディアが決定的な役割を果たしたと考えます。
新聞を例に挙げましょう。
毎朝、何百万もの人が自分の家やカフェなどのそれぞれ孤立した場所で同じ新聞を読みます。
これにより、人々は見知らぬ他者と「いま、同じ世界を共有している」という同時性の感覚をいだき、共同体の一員としての意識を育んでゆきます。
今は新聞を読まない人も多いので、イメージしにくいかもしれません。
今風に置き換えて説明しましょう。
大谷翔平選手が先頭打者ホームランを打ったとします。
サッカーの日本代表が決勝トーナメントに進出したというのでもよいでしょう。
何百万人もの人が試合をテレビで見たり、ニュースをスマホやパソコンなどのパーソナルメディアを通してそれぞれ孤立した場所で受け取ります。
そしてこのメディアが伝える情報を介して、
日本人として嬉しい!
日本人の誇りだ!
という気持ちをいだきます。
ここから「同じ国の仲間」としての意識が生まれ、強化されてゆきます。
これが国民意識であり、それはメディアを通して人々が「想像」して生み出したものだというのがアンダーソンの考察です。
『想像の共同体』の今日的価値
現代は国民国家の枠を超えて世界が一体化するグローバリゼーションのただなかにあります。
それなのにナショナリズムは消滅する気配がありません。
むしろ、これまで以上に強い力をもってきています。
これは日本社会の世論や政治を見ても首肯される傾向でしょう。
このグローバリゼーションの進展とナショナリズムの強化というパラドクスを考える際、国民とナショナリズムが生成されるメカニズムを鮮やかに描き出した『想像の共同体』は、きわめて有意義な示唆を与えてくれます。

