他者へのまなざし(林)

為政者として
寛政の改革で知られる松平定信(1758~1829)は、御三卿(ごさんきょう)の田安宗武の子で、8代将軍吉宗の孫にあたります。
10代将軍家治の世子(あとつぎ)に望まれましたが、田沼意次らの意向により、白河松平家(久松氏)の養子となります。

1787年に老中の筆頭格である老中首座に就任して寛政の改革を行いますが、93年に老中を辞職して白河藩に戻りました。

白河藩主としては、藩士が学ぶ立教館の設立、『白河風土記』の編纂、庶民が学ぶ敷教舎(ふぎょうしゃ)の設置などの文教政策に力を入れ、南湖の魚介養殖を奨励するなど殖産興業も行いました。

文人として
定信はまた優れた文人でもあり、自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』など、判明しているだけでも182部という膨大な著作を残しています。

『花月草紙』
『花月草紙』は6巻158章、定信の随筆集です。
政治・経済・学問・文化・自然現象・日常生活などの話題を、達意で典雅な擬古文で綴っています。
定信が老中職を辞して白河に戻ってから執筆しました。
成立年代は1796年~1803年と1812年~1818年という二つの説があります。

「蝦夷の人」の話
『花月草紙』巻一に「蝦夷の人」の話が収録されています。
短い文なので、まず原文を記しましょう。

蝦夷の人に飯を与へしかば、いと喜びながら、そこら食ひこぼしてんげり。
「やよ、米は玉の緒つなぐものなるを、などかくおろそかになすか」と問へば、
「われらは米食ひて命を全うするにはあらず、鮭といふ魚を食ひて生くるを」と言ふ。
「さらば、鮭の魚にて命を延ぶるならば、それをば尊ぶべからん。今、その足にはきたるものは、鮭の皮ならずや」と言へば、
しばし頭かたぶけて、「君の足につけ給ふわらうづとやらんは、かの米の出でくる草にはあらずや」と言ひしにぞ、
「あなどるまじきことよ」と人の言ひしとぞ。

わが国の人は、よそのことを知らねば、蝦夷人のなりかたち、わが国の人とたがへば、「いと愚かにて何知らぬものよ」と思ふたぐひぞおほき。
それより、漢土(からくに)にてもあれ、蝦夷の人にてもあれ、ただ姿かたちの見慣れぬを見ては、腹をかかへ、言葉のわきがたきを聞きては、また笑ふ。
「心狭く、よそ見ぬ故なるべし」と言ひぬ。

現代語訳
私が作った現代語訳をご覧ください。

蝦夷の人に飯を与えたところ、その人はたいそう喜びながらも、たくさん食べこぼしてしまった。
「おいおい、米は命をつなぐものであるのに、どうしてこのようになおざりにするのか」と問うと、
「私たちは米を食べて命をつなぐのではない、鮭という魚を食べて生きているのだから」と言う。
「それでは、鮭の魚で命を延ばすのであるならば、それを尊ぶはずだろう。今、その足に穿いているのは鮭の皮ではないか」と言うと、
蝦夷の人はしばらく頭を傾けて、「あなた様が足におつけになる草履とかいうものは、あの米が生まれ出る草ではないか」と言ったときに、
「見下して軽んじてはならないことよ」と、ある人が言ったということだ。

わが国の人は、外のことを知らないので、蝦夷の人の服装や容貌が、わが国の人と違うことによって、「たいそう愚鈍で、何も知らない者だよ」と思う人々が多い。
そのようなわけだから、中国の人であっても、蝦夷の人であっても、ただ姿や顔かたちの見慣れない人を見ては、腹を抱えて笑い、言葉のわかりにくいのを聞いては、また笑う。
「思慮が狭く、外のことを見ないからであるに違いない」と、ある人が言った。

定信の炯眼(けいがん)
自分は正しくて優れていると思い上がる。
おのれと異なる他者は間違っていて劣っていると侮蔑しあざ笑う。
定信はそうした態度をとる人々の了見の狭さを指摘しています。

『花月草紙』は今から200年あまり前に書かれた随筆です。
今日の「わが国」で高まる排外主義的な風潮を鑑みれば、定信の炯眼は今も鋭く輝いています。