中山道赤坂宿(林)
「美濃の西陲を訪ねて」の3回目です。
1日目の最後に中山道赤坂宿を訪れました。
中山道は江戸時代に整備された五街道の一つで、赤坂宿は江戸から数えて56番目の宿場です。
赤坂宿はまた、天台宗の名刹である谷汲山華厳寺(揖斐川町谷汲)へ向かう谷汲街道の起点でもあります。
画像1は中山道と谷汲街道の分岐を示す道標が置かれた四つ辻です。
ここから街道が北へ延び、華厳寺までは直線距離で約16kmです。
画像2は四つ辻から南に続く小巷です。
板塀と漆喰の家が路地を挟んで立ち並び、閑寂とした趣を感じさせます。
画像3は四つ辻から西へ向かう中山道です。
ゆるやかな弧を描いて登ってゆく坂道の曲線が美しいです。
画像4は赤坂宿のほぼ中央に位置する旧清水家住宅です。
「旧清水家住宅リーフレット」に依拠して紹介しましょう。
清水家は、江戸時代に町役人を務めた家格で、米屋を営んでいました。
近代に入って医業に転じ、屋敷地で診療を行っていました。
主屋は切妻造りで、建築面積は136.53㎡。
享保15年(1730)もしくは安永4年(1775)建造と伝えられます。
坪庭北側には、明治13年(1880)建造の墨書が残る土蔵があります。
旧清水家住宅は赤坂宿内に現存する建物の中でも最古級の町屋遺構で、様式や技法の観点からも文化財として高い価値をもちます。
画像5は「旧清水家住宅リーフレット」に記載されている旧清水家住宅の平面図です。
画像6は赤坂宿の東端にある赤坂湊跡です。
赤い欄干の橋の下を旧杭瀬川が流れています。
左側の3階建ての建物は赤坂港会館です。
もとは明治8年(1875)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所でした。
現在の建物は復元されたもので、内部は資料館となっています。
国土交通省中部地方整備局「かつて舟運で栄えた杭瀬川」にもとづいて、杭瀬川舟運について紹介しましょう。
杭瀬川は江戸時代から水運が盛んで、諸藩の蔵米や材木、酒などを運送するとともに、旅人の交通路としても大いに利用されました。
その中心地が赤坂で、杭瀬川筋から牧田川を経て桑名方面に連絡していました。
赤坂より上流の杭瀬川舟運が盛んになるのは明治に入ってからです。
赤坂湊は金生山の石灰産業の発達とともに製品輸送の主役となり、明治40年(1907)から、大正7・8年(1919)頃までが最も繁栄し、常時月間350隻の舟が名古屋まで往復していました。
大正8年(1919)に国鉄美濃赤坂駅が開通し、昭和13年(1938)に杭瀬川水門ができると舟の運航は困難となり、杭瀬川舟運は衰退していきました。
画像7は揖斐川の流路変遷図です。
画像8は赤坂大橋と赤坂湊(大正時代から昭和初期)です。
(画像7・8とも「かつて舟運で栄えた杭瀬川」より転載)
私が赤坂宿を訪ねたのは秋晴れの日曜日でした。
しかし街道は寂然としてほとんど人影がありませんでした。
1日目はこれで終了です。
夕闇が迫ってきましたので帰宅します。
次回は2日目の探訪を書きましょう。