ホタルと経学(林)

私が住んでいるところはゲンジボタルの自然繁殖地として名が知られています。
日曜日の夜に歩いて見にゆくと、百匹以上が暗闇のなかを明滅しながら飛んでいました。

『礼記』月令の蛍
中国の古典の蛍に関する不思議(変?)な文を紹介しましょう。
それは『礼記』月令(らいき・がつりょう)の文です。

『礼記』は、戦国・秦・前漢中期(紀元前5世紀~紀元前1世紀)の、礼制度に関する諸説を集めた書物です。
月令は年間の政事・行事・自然現象・風俗・習慣などを月ごとに叙述しています。

さて、『礼記』月令の季夏(旧暦6月)条にこう書かれています。

温風始至、蟋蟀居壁、鷹乃学習、腐草為蛍。
温かい風が吹き始め、コオロギが壁にとまり、鷹が学習し、腐った草が蛍になる。

「鷹乃学習」も興味深いのですが、今日は「腐草為蛍」に限定して書きます。

七十二候(しちじゅうにこう)
この「腐草為蛍」は古代中国で考案された「七十二候」のひとつになっていて、日本でも使われています。

1年を4つに分けて、四季
四季をそれぞれ6つに分けて、二十四節気
二十四節気をそれぞれ3つに分けて、七十二候
です。
一つの「候」はおよそ5日となります。

後漢の鄭玄(じょうげん)
『礼記』月令の「腐草為蛍」に戻ります。
『礼記』の注釈で最も権威を持つのは、後漢時代の鄭玄(127~200)がほどこした注です。
鄭玄は月令に注して、

蛍、飛虫。蛍火也。
……或作「腐草化為蛍」者、非也。
蛍は飛ぶ虫で、光を発する。
……ある本は「腐った草が化して蛍となる」と書いているが、それは誤りである。

としています。
鄭玄が言いたいのは、
「腐草為蛍」が正しく
「腐草化為蛍」は誤り
ということです。
「化」の一字の有無の是非を論じています。

『呂氏春秋』と『淮南子』
鄭玄が「化」の一字の有無にこだわるのは、『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』と『淮南子(えなんじ)』の以下の文を考慮しているからでしょう。

『呂氏春秋』は戦国末期(紀元前3世紀末)に成立した書物です。
『淮南子』は前漢前期(紀元前2世紀)に作られました。

『呂氏春秋』季夏紀(きかき)

涼風始至、蟋蟀居宇、鷹乃学習、腐草化為蚈。
涼風が吹き始めて、蟋蟀は軒(のき)に居り、鷹は学習し、腐草は化して蚈(ほたる)となる。

『淮南子』時則訓(じそくくん)

季夏之月……涼風始至、蟋蟀居奥、鷹乃学習、腐草化為蚈。
季夏の月……涼風が吹き始めて、蟋蟀は寝室に居り、鷹は学習し、腐草は化して蚈(ほたる)となる。

鄭玄は、『礼記』のテキストのひとつが

腐草化為蛍

としているのは、『呂氏春秋』や『淮南子』の影響を受けた誤りだと考えているようです。

『礼記』と『周礼』
では、どうして「腐草為蛍」は正しく「腐草化為蛍」は誤りなのでしょう。
それは『礼記』が「腐草及び蛍」と「鷹及び鳩」とを区別するからです。

『礼記』月令の仲春(旧暦2月)の条に、

鷹化為鳩
鷹は化して鳩となる。

とあります。
また『礼記』王制には、

鳩化為鷹、然後設罻羅。
鳩は化して鷹となり、その後に罻羅(鳥を捕らえる網)を設置する。

と書かれています。
そこで鄭玄は、『周礼(しゅらい)』天官の「司裘(しきゅう)」の

中秋、献良裘、王乃行羽物
中秋に、司裘は優良な裘(かわごろも)を献上し、王が官僚たちに羽毛の衣服を支給する。

に注して、

中秋鳩化為鷹、中春鷹化為鳩
中秋(旧暦8月)に鳩は化して鷹となり、中春(旧暦2月)に鷹は化して鳩となる。

と述べています。

『周礼』は戦国時代(紀元前5世紀~紀元前3世紀)の儒学者たちが西周王朝に仮託して礼制の体系を記した書物と考えられます。

ここまでの内容をまとめておきましょう。
鄭玄は、『礼記』が鷹及び鳩については

鷹化為鳩(月令)
鳩化為鷹(王制)

と記すのに対して、蛍については

腐草為蛍(月令)

と記しているという違いに注目しているのです。

後漢の蔡邕(さいよう)
「化」の一字の有無について、もっと明確に述べているのが、鄭玄と同時代の蔡邕(132~192)です。
彼は『月令章句(がつりょうしょうく)』で次のように論じています。

鳩化為鷹、鷹還化為鳩、故称化。
今腐草為蛍、蛍不復為腐草、故不称化。
鳩は変化して鷹となり、鷹は元に戻って鳩となる、だから「化」という。
腐った草は蛍になるけれども、蛍が再び腐った草になることはない、だから「化」とはいわない。

蔡邕が言いたいのは、
○「鳩→鷹」
○「鷹→鳩」
○「腐った草→蛍」
×「蛍→腐った草」
だから、鳩と鷹については「化」の語を使えるけれども、腐草と蛍には「化」を使うことはできないということです。

唐の孔穎達(くようだつ)
唐時代の初期に経書(けいしょ)の注釈書である『五経正義(ごぎょうせいぎ)』を編纂した孔穎達(574~648)は『礼記正義(らいきせいぎ)』で次のように述べています。

「腐草為蛍」者、腐草此時得暑湿之気、故為蛍。
「腐った草が蛍になる」というのは、腐った草はこの時期に暑く湿った気(エネルギー)を得る、だから蛍になるのである。

立脚点を疑う
儒学の経典=経書(けいしょ)を研究する「経学」を治める経学者(けいがくしゃ)たちは、経書には真理が書かれているということを前提に、文字の異同とその是非を議論します。
それゆえ「腐草為蛍(腐った草が蛍になる)」こと自体には疑問を差し挟みません。

現代の科学に依拠して経学者たちの滑稽さを嗤うことは簡単です。
しかし翻ってみて、私たちはどうでしょう。
現代の文明社会を成り立たせているさまざまな前提を無反省に信じて、その枠組みのなかで物事の是非を判断しているのではないでしょうか。

『詩経』小雅・鶴鳴は、

它山之石、以可攻玉
他山の石を用いて、玉を磨こう

と詠っています。