シリア情勢と殷周革命(林)
シリアで親子2代、53年にわたって続いたアサド政権が崩壊しました。
反政府勢力の進攻に対し、シリア政府軍は戦わずに逃げたり退避したりしたということです。
この報道に接して私は司馬遷『史記』周本紀のある一節を思い浮かべました。
ときは紀元前11世紀後半とおぼしき頃……
現在の陝西省中部を根拠地とする周(西周)の軍隊が同盟する諸侯の軍とともに殷の都(大邑商もしくは天邑商)の郊外に到着します。
その様子を『史記』周本紀は次のとおり伝えます。
二月甲子昧爽、武王朝至于商郊牧野。
二月の甲子の日の明け方、武王は商(=殷)の郊外である牧野(ぼくや)に到着した。
武王すなわち周の族長である姫発(きはつ)に率いられた軍勢は、
戎車(=兵車)300乗、虎賁(=近衛兵)3000人、甲士45000人。
これに諸侯の兵「車4000乗」が加わったと周本紀は伝えます。
殷の紂王(ちゅうおう)は70万人の大軍を発して迎え撃ちます。
ところが殷軍はすでに戦意を喪失していました。
周本紀は次のように記します。
紂師雖衆、皆無戦之心、心欲武王亟入。
紂師皆倒兵以戦、以開武王。
武王馳之、紂兵皆崩畔紂。
紂走、反入登于鹿台之上、蒙衣其殊玉、自燔于火而死。
紂の軍隊は人数は多いけれども、みな戦う気がなく、心のなかでは武王が速やかに殷の王都に入ってほしいと願っていた。
紂の軍はみな武器を逆さまにして戦い、武王のために道を開いた。
武王がその中を駆け抜けると、紂の兵は総崩れし、紂に背いた。
紂は敗走し、宮殿に入って鹿台(ろくだい)に登り、宝玉を身にまとい、自ら火の中に飛び込んで死んだ。
上の史料には「倒兵以戦(武器を逆さまにして戦う)」と記されています。
これは、刃を周軍に向けなかったという意味であるとか、殷の紂王に武器を向けて周軍とともに紂王を攻めたという意味であるとか解釈されています。
いずれにしても殷軍が周軍と戦う意思を持っていなかったことを表しています。
シリアのニュースから私が想起したのはこの「倒兵以戦」でした。
さて、司馬遷が史記を撰述したのは紀元前100年頃と考えられています。
一方、周の武王が殷を滅ぼしたのは紀元前1000年より少し前と推定されます。
これだけ時間が懸隔していると、記事の信憑性に疑問を持つかもしれません。
でたらめなことをでっち上げているのではないか、と。
では『史記』周本紀の信憑性をどのように確かめればよいでしょうか。
最も有効な方法は同時代の史料と照らし合わせることです。
上に引用したように『史記』周本紀は周の武王が殷の紂王を滅ぼした日を
二月甲子昧爽(二月の甲子の日の明け方)
と記録しています。
ここで二つの青銅器の銘文を見てみましょう。
1976年、陝西省臨潼県(現在は西安市臨潼区)の窖(地下に掘られた穴蔵)から西周時代の青銅器が多数出土しました。
そのうちのひとつが利簋(りき)です。
簋(き)は穀物を盛る器です。
西周王室の「利」という役人が作成した簋なので「利簋」と呼ばれます。
現在は北京の中国国家博物館に収蔵されています。
利簋は高さ28cm、口径22cm、器の内底に4行32字の銘文が鋳込まれています。
銘文は前段と後段に分けられ、前段は以下のとおりです。
珷征商。
隹甲子朝、歳鼎。
克昏夙有商。
武王が商(=殷)を征伐した。
ときは甲子の日の朝、歳鼎〔未詳〕
武王は勝利をおさめ、未明に殷を占領した。
画像1 利簋

画像2 利簋の銘文(拓本)

出典:www.chnmuseum.cn/portals/0/web/zt/100n/guobao_content-5.html?id=27
この「利簋」に見える「甲子」という日付が『史記』周本紀の「甲子」と一致しています。
次は何尊(かそん)という青銅器の銘文です。
何尊は1965年に陝西省宝鶏市宝鶏県(現在の宝鶏市陳倉区)賈村鎮で出土しました。
製作されたのは武王の次に即位した成王の時代と推定されます。
尊(そん)はお酒を入れる器で、「何」という貴族が作ったので「何尊」と呼ばれます。
高さ38.8cm、口径28.8cm、器の内底に12行122字の銘文が鋳込まれています。
現在は陝西省宝鶏市の宝鶏青銅器博物院が所蔵しています。
銘文の一部は次のとおりです。
隹珷王既克大邑商。
武王が大邑商に勝利した。
画像3 何尊

出典:artouch.com/art-market/content-944.html
画像4 何尊の銘文(拓本)

出典:politics.people.com.cn/NMediaFile/2014/0221/MAIN201402211700000422353675655.jpg
以上の同時代史料から推定できることは次の2点です。
第一に、周の武王が殷を滅ぼしたことは歴史的事実である。
第二に、『史記』周本紀はその日付を正確に伝えている。
ただし、これは『史記』の伝える内容がすべて正しいということを説明するものではなく、周が殷を滅ぼした経緯の真偽は別に考察しなければなりません。
さて、紂王の死を確認した武王はただちに戦後処理を行い、功臣やかつての聖王の子孫たちを諸侯として各地に封建します。
しかし、黄河中流域には殷のもとに都市国家連合体を形成していた諸国があり、殷に敵対していた諸勢力もいます。
それらが西方からやってきた周の支配をすんなりと受け入れるとは限りません。
周にとっての本当の戦いはここから始まり、西周時代を通して行われてゆきます。
シリアもまたしかり。
人々の暮らしに安寧をもたらせるか、注視してゆきたいと思います。