『田園の憂鬱』(林)
先週は佐藤春夫『台湾小説集 女誡扇綺譚』について書きました。
今週は佐藤春夫の代表作、『田園の憂鬱』をご紹介します。

【刊行の経緯】
『田園の憂鬱』は1917年に『病める薔薇』(やめるそうび)という題で初稿が発表されます。
その後、幾度かの改作を経て19年に定本が刊行されました。
【小説の舞台】
小説の舞台は神奈川県都筑郡中里村鉄、現在の横浜市青葉区鉄町です。
周辺地域は住宅地に様変わりしていますが、鉄町は学校法人桐蔭学園を中心に丘陵と田畑が残っていて、『田園の憂鬱』が描写する武蔵野の景観をほんの少しだけ偲ぶことができます。
私はかつて鉄町から北へ歩いて1時間ほどのところに住んでいたことがあるので、懐かしさとともにその風景を思い出します。

【転居の理由】
主人公の「彼」は都会の生活に息がつまり、人間の重さに圧迫されるのを感じて、内縁の妻と2匹の犬、1匹の猫とともに、広い武蔵野が、その南端になって尽き、山国の地勢に入ろうとする丘陵部、その何処にででも見出だされそうな、平凡な田舎に憧れて、この地に転居してきました。
【田園の生活】
しかし、ここも安息の地ではありませんでした。
彼は神経衰弱を患い、陰鬱、厭世、不安、焦燥、倦怠といった思いに苦しみ、自分が離魂病ではないかと怖れます。
また、近隣農家との付き合いにも懊悩します。
現代でも都会から地方の農村に移住して、都会とは異なる人間関係に苦労するという話を仄聞します。
まして百年前のことです。
都鄙の懸隔の大きさは想像に難くありません。
【知識人の家系】
そもそも佐藤春夫は知識人です。
佐藤家は江戸時代から紀州で医業を務めてきました。
春男の父、豊太郎は医師であるとともに文芸の造詣も深い人でした。
春夫が生まれ育った当時の新宮は材木業で栄え、先進的な文化人が活動していたといいます。
春夫は旧制の新宮中学校在学中から『明星』や『スバル』などの文芸誌に短歌や評論を発表し、上京後は慶應義塾大学文学部予科に入り、永井荷風に学びました。
【不幸な出会い】
物理的な空間世界は地続きで往来が可能であっても、彼我の属する文化的世界はまるで違っていたことでしょう。
春男は農民たちを理解できないし、農民たちも春男を理解できなかったと思います。
小説は「彼」の視点から農民たちを描いていますが、農民たちにも言い分はあったはずです。
これは善悪正邪の問題ではないので、どちらの認識が正しく、どちらの見方が間違っているというものではありません。
お互いに不幸な出会いと交際であったと言うほかないでしょう。
【病める薔薇】
彼の神経衰弱は秋の長雨とともに昂進し、幻聴や幻視に襲われます。
「病める薔薇」は彼の写し絵でもあったのです。